松岡正剛の訃報について

 私たちは一人一人がイメージ・プロセッサーである。外から入ってきた情報をいつのまにかプロセッシングをしている。これを情報処理という。どのように処理しているのであろうか。

 ごく一般的には、最初に外界からの入力刺戟があり、そこで入力済みの情報の呼び出しと検索がおこり、その中から情報の連合のためのパターン・マッチングをおこしていると考えられる。これがコンピュータ・サイエンスや認知科学が承認している処理方法だ。

 しかし、私は〈編集〉はそこから先でこそ活躍するものだと思っている。パターン・マッチングまでなら従来のコンピュータでも可能であるが、そこから先が重要なのだ。だいたい「情報処理」という言葉が気にいらない。〈情報編集〉とすべきだ。私たちは一人一人がイメージ・エディティング・プロセッサーであり、イメージ・プロセッシング・エディターなのである。

『知の編集工学』

 

 

(訃報)松岡正剛 逝去のお知らせ | 編集工学研究所

松岡正剛は、2024年8⽉12⽇(⽉)、東京都内病院にて肺炎のため逝去いたしました。⽣前のご厚誼に深謝し、謹んでお知らせ申し上げます。

松岡正剛が死んだ。

松岡正剛とおれ、おれと松岡正剛。最初に「読め」とすすめてきたのは父だった。父は編集者だったこともあって、「編集」というものにも広く興味を持っていた。おれを編集者に仕立て上げようとしたふしもある。

とはいえ、おれが松岡正剛の本をまともに読んだと思ったのは、仏教本『空海の夢』であった。おれにとって、初めての仏教本だったかもしれない。

 

おれが読んだのは、古本屋で買った最初のバージョンだが。これによりおれは、いわゆる「葬式仏教」のイメージしか知らなかった仏教に関心を持ち、鈴木大拙の禅に関する本や、親鸞に関する本、さまざまな仏教本を読むようになった。

 

親鸞。おれの父親は吉本隆明信者だったが、おれは勝手に『最後の親鸞』を手にとって、それから吉本隆明を読みはじめた。どうも子供のころの影響からは逃れられないらしい。

 

して、おれがいろいろの仏教本、もちろん僧の書いたものも多いが、それらを読むうちに、松岡正剛に対する一つのイメージが生まれた。「松岡正剛って、なんかうさんくさくないか?」だ。松岡正剛といえば博覧強記の編集家、著述者だ。古今東西のあらゆることがらに精通しているといっていい。とはいえ、僧ではない。僧ではないものにしては、『空海の夢』でずいぶんいろいろ踏み込んでたな、というイメージだ。

 

むろん、おれは『空海の夢』のここが仏教的におかしい、などと指摘するつもりもないし、できるわけもない。ただ、僧でも仏教学者でもないのに、あれをぶちあげるのはすごいな、というわけだ。同じことは吉本隆明の親鸞ものや良寛ものにも言えるかもしれない。ヴェーバーをもとにキリスト教をこのうえなく楽しくぶった切った小室直樹にはもっといえるだろう。

 

というわけで、松岡正剛はどっかしらうさんくさくていんちきくさいところのあるやつ、ということになった。具体的に、書いていることについての事実がおかしいとか、これとあれとをつなげるのは牽強付会もいいところだとか、そんな指摘はできない。できないけど、どことなく怪しいやつと思った。そして、おれはその怪しさが好きだった。

 

  もともと私は、情報の基本的な動向について三つの見方をもっている。それは「情報は生きている」ということ、「情報はひとりではいられない」ということ、そして「情報は途方にくれている」ということだ。

『知の情報工学』

 

それにしても、おれが編集者・松岡正剛の大傑作だと思うのは、『情報の歴史』という年表だ。このことはついこないだ書いた。

goldhead.hatenablog.com

 

 

松岡正剛は1944年に生まれた。さすがにこの年は戦争のことばかりだ。それでもバタイユは『有罪者 無神学大全』を書いているし、ジュネは『花のノートルダム』を書いている。ボルヘスの『伝奇集』が出たのも、鈴木大拙の『日本的霊性』が出たのもこの年だ。そして、ニューヨークのメーシー百貨店は1日の売上が100万ドルを超えたという。

 

だからなんだというのだろうか。でもおもしろいじゃないか。

 

松岡正剛の書き残したものは膨大だ。「その分野はちょっと苦手で」と、手に取っていない本もある。日本古典芸能とか。それでもまあ、いくらでも読む本は残っている。悪い話ではない。

 

そしてまた、おれも一人この日記を書いて、ある種の編集をたのしむことにするか。

 

 編集は、どこからでも、どのようにもはじまるものである。

 世の中の施設やツール、メディアを利用するのもたのしいものではあるが、それだけでなく自分が「一人のマガジン」となり、「一冊の番組」になり、「一陣の楽器」になることは、もっと痛快なものである。私たちは、誰もが一人ずつのラディカル・ヒストリーであり一人ずつのエディトリアル・エンジンなのである。

『知の情報工学』

 

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goldhead.hatenablog.com

このミュージアムの松岡正剛の本棚は最高にたのしかったな。

喫煙者の著者ばかり集めた棚とかあんのよ。