ポリコレのキャンセルから逃げるためには、くだらない共感を求めるな、一切の連帯感を捨てろ

寄稿いたしました。

blog.tinect.jp

田山花袋の『蒲団』と、それを元にした令和の映画『蒲団』。そこから見えてくる「先生」的男性の相違について考えてみました。そんでもって、いつの時代も男は愚かや……と、思った次第です。

 

と、これを入稿したあとに、以下の記事読んだ。

anond.hatelabo.jp

まさか日本で女子アナ(若い女性)が「男性は臭い」と言ったらキャンセルされる時代が来るとは思わなかった。

ワイはちゃんとアップデートされたオッサンとして仕事中に女性に関するジョークやたとえ統計など根拠があっても属性としての女性を批判する発言は絶対にしないように気を付けとるんやけど……

ビジネスランチや飲みで「ワイも含めて男ってのはバカな生き物やからなガハハハッ」みたいな冗談はよくやってまうんや。

男連中はアルアルと苦笑いして、女の子にも結構受けるし、男当事者のワイが男を下げて言う分には別にええやろ、ぐらいの感覚なんやけど、

こういうのも部下の男や取引先の若い男から「増田さんに『男性差別』をされて傷ついた……」と通報されてワイがキャンセルされるリスクもあるんやろうか?

最新版にアップデートし続けるのも大変やね。

 

これに対する反応はだいたい、「おまえのような男と一緒にされたくない」、「それは立派な男性差別だ」、「アップデートできていないゴミだ」というものであった。おれが『蒲団』の記事で書いたのは、ある意味で「ワイも含めて男ってのはバカな生き物やからなガハハハッ」であって、「あかん、おれもキャンセルされてしまう」と冷や汗をかいた。冗談抜きで。

 

主語が大きいのはよくない。主語は最小に留めなくてはいけない。すなわち、おれ一人、これである。あるいは、具体的に『蒲団』の先生とおれ。これだけで成立する話にしなくてはならない。

 

昭和生まれの古い人間の一人であるおれからすると(もちろん昭和生まれでもきちんと時代の倫理観にアップデートされている立派な男性はたくさんいます)、「男ってのはだいたいこんなもんだろ」みたいな十把一絡げをしたくはなる。「例外はいないぞ」という厳密さはもちろんないが、「なんとなくこういうしょうもないところあるよな」という共感をえたいというところがある。「こういうところない?」と呼びかけてしまいたくなる。しかし、このような昭和生まれの古い人間の一人であるおれ(もちろん昭和生まれでもきちんと時代の倫理観にアップデートされている立派な男性はたくさんいます)の雑な考えは、もはや地獄に直結している。

 

ゆえに、世の中のあらゆる属性について、属性全体を指してなにかを言うことは避けなければいけない。たとえおれが日本生まれの日本人だからといって、「日本人ってのはだいたいあれだからな」とか言ってはいけない(日本生まれの日本人のなかにもその属性によって人を判断しない現代倫理にアップデートされた立派な日本人もたくさんいます)。「アメリカ人は」、「ロシア人は」、「中国人は」、「イスラエル人は」……全部ご法度だ。

 

あらゆる人間が無知のヴェールをかぶって、もしも自分が「男/女(性のあり方は多様でありこの二項で言い切れるものではありません)、日本人/アメリカ人(国籍とはべつに血統的なルーツや国家思想などについて多様な可能性が存在します)……その他全般」である可能性を考えたうえで物事を判断し、述べなくてはならない。男がだとか、女がだとか、そんな主語は禁止されていると考えたほうがいい。

 

存在するのはただ一人、自分という個人。だれと共感することもなく、共感を求めることもなく、連帯することもなく、ただ一人の愚かな個人として、その愚かさ一つで世間と対峙しなくてはならない。ミスした場合燃やされるのは自分だ。自己責任だ。属性は救ってくれないし、属性なんてものはそもそも存在してはならないものだ。

 

究極のただ一人、孤独のなかに現代倫理のなかで人間は生きなくてはいけないし、属性によって自虐どころか連帯することもさけなければいけない。厳密な統計でもなければ、属性を主語にしてはならない。場合によっては、厳密な統計が人を傷つける可能性もあるので、それも避けなければいけない。ほめているようであっても、それがべつの価値観から見たらけなしていることになるかもしれないし、属性のなかでほめられるようでない人を疎外する結果になるので、ほめてもいけない。

 

くだらない共感を求めるな。一切の連帯感を捨てろ。おまえは属性とはなんの関係もないし、属性なんてものは存在しない。旧時代的な差別的なものの見方によるまやかしにすぎない。おまえはただ一人の人間であって、だれかとの共通点など存在しない。ましてや属性を前提とした共通点などまったく存在しない。自分の属性がそうであるように、だれかほかの人間がいたら、それはただの個人であって、その人の背景からなんの判断もしてはならない。その人と同じ属性を持つ人と、その人の間にはなんの関係もない。その人はその人である。それ以上でもそれ以下でもない。

 

このような世界が息苦しいと思うなら、なにも喋るな。文章にするな。ただ一人の孤独のみを友として自らのうちにとどめ、意見を表現することをあきらめろ。これしか危険を避ける方法はない。これが昭和のおっさんからのせめてものアドバイスだ(昭和生まれの中年男性のなかにも「おっさん」と蔑称で呼ばれるべきではない人は数多く存在します。世の中にいる「おっさん」はおれ一人です)。