イエスに人間味を見出してしまう問題

寄稿いたしました。

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キリスト教関係者を激怒させて袋叩きにあった『ふしぎなキリスト教』というかつてのベストセラーと、それに対応したカトリック司祭の『『ふしぎなキリスト教』と対話する』をもとに、すこしだけキリスト教の基礎を学ぼうとしたものです。もちろん基礎なので「古教会スラヴ語におけるギリシア語の借用語について」とかはわかりません。つーかそんなのわからん。

 

で、書ききれなかった部分に、ひとつ気になったところがある。それは基本的に『ふしキリ』を評価しよう、いいところ探しをしようとする来住司祭が「率直に言って、こういうコメントはキリスト者としてはいささか苛立つところです」と苛立っている部分。

 

どんな部分かというと、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうかの話」、「かわいそうないちじくの話」、「マルタのマリアの話」などについて、大澤真幸が「お気楽、享楽的、衝動的」なイエスを見出そうとするところ。

 

これ、そうか、苛立つのか、というのが正直なところで、おれなども聖書を読んでいて、いちじくを枯らすイエス(マルコ福音書11章14節)に「イエスも腹減ったら怒るんだな」とか思ってしまって、逆にそこがいいな、などとお気楽に思っていたからだ。

 

来住さんは大澤さんについてこうも述べている。

 

しかし、何度も読んでいると、大澤さんは本当に、お気楽で享楽的で衝動的なイエスに心を惹かれているのかもしれないと思えてきました。キリスト者の語る大真面目なイエス像に我慢できないのかもしれない。

 

そういうところは、なんというか、まあ外国人のこともわからんが、ちょっと日本人的かなと、主語が大きいと言われたらそうかもしれんが、そう思うところがある。どうだろうか?

 

われわれの主イエス・キリストは唯一の同じ子である。彼は神性を完全に所有し、同時に人間性を完全に所有する。真の神であり、同時に理性的魂と肉体とから成る真の人間である。

 

と、人間性を完全に所有しているとすれば、人間の完全ってなんだってことになって、人間なんて不完全でしょうもないものであって、不完全さがなければ完全な人間性もねえだろうと思ってしまう。そういうところがある。逆に、わざわざ人の世に降りてきてるんだから、ちょっとはな、と。ノン・クリスチャンで、人間の愚かさを肯定する人間からすると、そんな見方ができてしまう。

 

これについて、来住さんは「福音書を読んで、イエスの人品骨柄について、あれこれ想像するのは間違っていません」とは言うものの、どのような人柄かは信仰者にとって重要ではなく、聖書はそういう情報をあえて消していると書いている。

 

イエスはたしかに人間だが、同時に神でもあって、そりゃまあ天地創造をしている側でもあるし、全知全能、全権の存在だ。その壮大さが理解しにくいかもしれないとも来住さんは指摘していたが、まあそのあたりは正直わからん。わからんが、まあノン・クリスチャンがイエスに人間味を見出そうとするとキリスト者は苛つく。これは文化の相互理解として覚えておいてもいいかもしれない。