吉本隆明『良寛』を読む

良寛

良寛

 良寛がじぶんに抱いて離さなかったのは、その悲劇的性格でありましょう。どうしようもない堪え性のなさ、張りきることのできないちぐはぐさ、懶惰と無為、他者との葛藤に耐えずに退転する心情、軟弱で、文学みたいなもので自分を慰めないではおられない性格、それらに良寛自身がじぶんで見極めをつけたとき、道元禅の思想から遠くに去ったのです。それとともにほんとの隠棲がはじまったのだともいえます。

 おれは夏目漱石のいうところの「門」の外からなかを覗いている、いや、覗きたいなと思っているていどのものであって、門前の小僧ですらなく、たんなる門外漢である。でも、門の中はいろいろな仏教者がいて楽しそうだ。そんな中に大愚良寛がいてもいい。とはいえ、子供と一心になって遊ぶ、なんというのだろうか、理想的な、童心を持った、優しいお坊さんみたいな良寛さんじゃない。こんな風に吉本隆明が切り込んでみる良寛に興味がある。そして、隠棲といっても、やはり共同体との関わりがなくては生きていけず(富んだものからも貧しいものからも等しく乞食したという)、その有り様、さらに視野を広げれば、東アジアの村落共同体におけるこういった僧の有り様なんて話も出てくる。
 が、この本は吉本隆明良寛の思想の、詩の、書の入り口に立ったところを集めたものらしく、『最後の親鸞』のごとく『最後の良寛』のような本があるかどうかは知らない。
 良寛漢詩をひとつ、書き下し文のみ。

柳娘ニ八の歳
春山花を折って帰る
帰り来って日已に夕れ
疎雨燕支を湿す
首を回らして待つ有る若く
裳をかかげて歩遅々たり
行人皆佇立し
道う是れ誰か氏の児ぞと

 吉本はこれはいい詩で、中国でも宋代に入ってから出てくるような、日常を、生活をうたい上げたもんだと評する。ふうん、そんなもんかね。というか、おれなんぞはじめ「二十八歳の娘?」と思ってしまったが、これは十六歳って意味なんだと。知らんわ。あるいは、隠棲の陰惨な感じの詩。

冬夜長し
冬夜長し冬夜長し
冬夜悠々何時か明けん
燈に焔なく炉に炭なし
只聞く枕上夜雨の声

 これについて、吉本はこんなふうに。

 むしろこの詩は冬の孤独な隠遁者の生活の心境を述べているんだと解しない方がいいのです。じぶんの意志でみずから択んだ山中の誰もいない孤独な生活のなかで、冬の夜寒くて火も消えちゃった。炉端に炭もなくなった。そういうとき、なぜじぶんはこういうことをせんならんのだ、こんなことをして何になるんだ、誰もそれを認めてくれるわけでもないし、誰のためにやってるわけじゃないし、こんなことをしたからって別にどうということはない、つまりいちばんよくいって、じぶんがひとりでに死んじゃうということだけですから(笑)、どうってことないのに、どうしてこの状態を択んでいるのだ、という否定の動機から読んでみるべきものと存じます。

 なにかこう逆説的なのかなんなのか、自分で択んだ道にあって、それでもなにか出てくるものがあって、詩が生まれる。否定に否定を重ねて動きのあるところに良寛あり、良寛の精神の流れあり、といったところらしいが、いやはやさてさて。それで、もうこんな言葉は死んじゃってるし、われわれとは隔たっているんだけど、でも、良寛のその瞬間を触知することできり結べる言うんだな。それで全部が生きてくると。このあたりはそうなのかもしらん、そうでないのかもしらん、おれにはわからん。
 あとは「書」なんだけど、まあ吉本隆明も書の専門家じゃないわけだけど、草書体で書かれた一字なんて読めんと言ってて安心した。が、しかしなんだろうね、「ただわたしたちは良寛の草書の極限では概念の符牒と響きで描かれたふしぎな絵画を体験しているようにおもえる」そうで。まあ、おれは普通の(?)草書もわからんし、良寛の草書の特徴もわからんでなんとも言えん。ただ、おれが極限的に字を書くのが面倒なとき(もうこのごろは常にそうだけど)に書きつけられる恐ろしく簡略化された線と点は草書的かなあなどと勝手に思ったりした。まあ、そんなものと比べちゃいけねえな、たぶん。まあそんなところで。

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最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)