『吉本隆明が語る親鸞』を読むときぼくの語ること

 

吉本隆明が語る親鸞

吉本隆明が語る親鸞

 

 高橋源一郎が3.11後に鶴見俊輔の『思い出袋』と吉本隆明の『吉本隆明が語る親鸞』しか読めなくなった、というようなことを書いていた。おれはもう、『最後の親鸞』も読んだし、糸井重里企画なら『悪人正機』も読んだし、もういいかな、とか思っていた。けれど、本書を読みはじめてすぐ、「これは買って手元に置かなきゃ」と感じて、買った。

とはいえ、この本にまったく新しい親鸞についての解釈があったとか、そういうわけではない。おれは鈴木大拙が語る親鸞浄土真宗)についても読んできたし、先に書いた二冊も読んでいるが、語りおろされた本書には、さらになお何かがある、そう思わずにはいられなかった。その「何か」がなんなのかはわからない。本書のなかでも繰り返し語られることがある。それでもなお、だ。

(※以下引用文太字は引用者による)

 法然も同じ十八願を眼目にしているわけですが、法然親鸞とではいくらかニュアンスが違うところがあります。

「少しでも善い行いをしようと考えることも助けにはなるが、そういうことは重要ではないんだ」

 というのが法然の考え方です。親鸞の考え方は、極端なことを言いますと、

善いことをしようなんて思っていたら駄目だよ、往生できないよ」と言ってると思います。そこは法然と言ってる陰影が違って、

「少しでも自分のほうから計らって善いことをしようと考えたら、真実の浄土へはゆけませんよ」

と、きっぱりと言ってるとぼくは理解します。

「現代に生きる親鸞

このあたりである。吉本隆明は不思議と使わない言葉だが、これこそが「他力本願」であり、絶対他力妙好人・浅原才一の言う「たりきには じりきもなし たりきもなし ただ いちめんの たりきなり」の場所だろうと思う。もちろん「本願ぼこり」、「造悪」に陥っててもしょうがない、それすらしょうがないといえばしょうがないと言えるかもしれない。

そう、人間の計らいなんて、善いと思ったところでしょうもないもんなんだ。そういう話である。人間の考える善悪なんて。

糸井 どうしても人は「善悪」を大きな判断基準にしてしまいがちですが、今回(引用者注:3.11)、多くの人が「実はそんな単純な話ではない」ということに気づき始めたんじゃないかと思います。でも、「じゃあ、一体どうすればいいの?」というところで戸惑い、立ち止まってしまっているんじゃないかという気もするんです。価値判断のよりどころを、見失ってしまったというか。

 

吉本 その点に関して、親鸞ははっきり言っています。「善悪の問題を、第一義のことと錯覚してはいけない」とね。何かをしたほうがいい、あるいはしないほうがいいといった判断を「善悪」に基いてしてしまうと、どうしても自己欺瞞に陥ってしまいます。そうではなく、「人には『契機』というものがあり、それによって、『おのずから』何かをしたいと思ったらすればいいし、したくないと思うならしなくていい。そう考えればいいんだ」と言っています。「自然法爾」という言葉が仏教用語にありますが、これはまさに、人為ではなく、あくまでも「おのずから」に任せる、つまりは他力という状態でものごとを考えるということで、親鸞の考え方の、ひとつの核となる部分だと思います。

吉本隆明×糸井重里

 ここまで、徹底して、善悪というところから離れた位置にある、あるいは物事を見るということは、なんだか勝手にやればいいという簡単なことのようでいて、やはりハードなことであるようにも思える。人間、自分が善いことをしたと思えば、自分でもそう思いたいし、他人にそう思われたいというところがついてくる。でも、善悪なんてしょせんは人間の計らいにすぎないんだよ、と。

それは、「修行すればいいところにいける、寄進すればいいことがある」なんてのに比べて、決して易いことではないように思える。それゆえに、『歎異抄』で唯円は「自分は名号念仏を称えても、少しも喜ばしい心にならないし、浄土がいいところだといわれても、そこへゆこうという気持ちがちっともおこらない」なんて言ったりする。それに対して、親鸞は「おれもそうだ」と答える。

「我々には煩悩があるからこそ、この悩みの多い、苦しみの多い現世がなかなか捨てがたい。悩みがあまりに多い現世というのは、言ってみれば故郷みたいなものなんだ。浄土はたいへん素晴らしいところだが、やはり故郷が離れがたいように、煩悩や苦しみの多いこの世は離れがたい、そのとおりだよ。

 だからこそ阿弥陀仏四十八願のうち第十八願というのはますます信頼できる。我々が煩悩具足の人間でなくて、すぐにでも浄土へいきたい気持ちになれるのだったら、阿弥陀仏の第十八願などいらないことになり、阿弥陀仏のほうで、これでは救済も不要だと落胆されるだろう。自分たちはごく自然に命脈が尽きた時に浄土へゆけばいいんだよ」

大乗仏教の一つの究極のところだろうと思う。仏教というものが、インドかどっかで始まって、日本にたどり着いて、親鸞が終わらせたところ。最後の親鸞、である。 そして、それを読み解く吉本隆明がいて、ぼくらに語りかける。

 ぼくらも、うんと注意してもついやっちゃいます。だいたい、善いことをしたり、善いことを言う時には、図に乗ることが多いわけです。それは逆にいえば、他人が悪いことをしている場合には「けしからんじゃないか」ということになってしまうのです。

 しかしそうではないのであって、人間はだいたい、「善いことをしている」と自分が思っている時には、「悪いことをしている」と思うとちょうどいいのではないでしょうか。それから、「ちょっと悪いことをしてるんじゃないか」と思ってる時は、「善いことをしている」と思ったほうがいいと思います。それくらいでバランスがとれるんじゃないかと思います。

親鸞の声について」

こんなバランスのとりかた、吉本隆明くらいしか言えないんじゃないか。そんなふうにも思う。もう、なにか究極に人間の行い、愚行をみとめて、そのうえで、こんな見方をする。これは一種の信心だろうか?

 ところで、法然親鸞は、解脱上人が言うように、本当に口先だけで名号を称えればいいと言っているのでしょうか。

 ぼくの考え方では、そうだと思います。口先だけで名号を称えればいい、特に親鸞はそう言ってるとぼくは理解しています。

親鸞の転換」

 

「そうか、おまえの信じているのは言葉だけか」と言われれば、「そうだ、おれは言葉だけを信じている」と、親鸞は答えるでしょう。それくらい徹底していたと思います。

親鸞の転換」

このあたりになると、吉本隆明親鸞が一体となっているかのようでもある。そのように感じる。でも、吉本自身はそこまでいっていないという。

 言ってみれば、「善いことをしている奴は浄土へはいけないよ」と言ってるのと同じことですが、これはぼくらがいくら言っても親鸞と同じようにはならないんです。理解することはできるんですけれども、いわゆる「説明」じゃないものだから、ぼくらが「こうなんだ」と言うと、必ずちょっとだけずれて、嘘になっちゃうんです。なかなかうまく言えないんです。

親鸞の転換」

これが「信」の内外ということになるのだろうか。おそらくそうだろう。宗教というものは、たとえ親鸞ほどの「なにもなさ」に行き着いたところで、やはりそこには「信」の問題が出てくる。自らの信仰体験のようなものが必要になってくる。そういうところがあるかもしれない。ところが、その信仰体験を求めようと修行をしたり運動をしたり瞑想をしたり毎日野菜を350g採るようにしても、それは己の計らいにすぎず、それは逆に「悟り」(という語は親鸞にふさわしくないかもしれないが)を遠ざけるものである、ときたもんである。これは難しい。難しいところに最大のやさしさがあって、そのやさしさになまじっか「考えること」をしてしまうおれなども入れない気がしてしまう。おれは妙好人にはなれない、そういうところである。

さて、そういった宗教的な境地ばかりでなく、社会問題のようなものについても触れられている。それはもちろん、親鸞の場所から照射するものである。

 ぼくなりの解釈を申しあげますと、眼前に切実な問題や事件、あるいは社会現象が次々に起こってる場合には、それを<緊急の課題>と考える、あるいはこれは<永遠の課題>なのだと考える、どちらの考えをとっても、駄目なのではないかと思います。

(中略)

 混ざって出てきている問題に対して、二者択一で、たとえば緊急な課題にだけ対処する、あるいは緊急な問題はどうでもいいと考えて、永遠の問題としてだけ考えるというふうに、どちらかを選択すると、必ずその事柄に対する理解を間違えると思います。

 社会では、これをどちらかの課題として解けとか、おまえはどちらかの

課題に着けとしばしば言われますが、その言われ方はたぶん間違いです。

親鸞から見た未来」

これなどどうだろうか。どうもおれらは緊急か永遠か、というところ以前に、ほとんどの問題を「緊急」に分類し、その上でさらに「さあお前はどっちだ?」の二者択一に振り回されている、おれにはそう思えてならない。でも、そうじゃないんだ。本書で例にあげられているところでは、たとえばタバコはたしかに身体に悪影響を与える、しかし、人間はほかにもアルコールや薬物など身体によくない嗜好品を手放さずにここまできた。たんにタバコはよくない、では、人間というものの根源に触れるかもしれない後者を見過ごしてしまうかもしれない。人類の歴史における永遠の課題を見逃してしまうかもしれない、といったところ。

そして、ひとつの究極である問題は「死」である。個体の死。

 社会的な課題、精神的な課題、それからもっと中間にある家庭的な課題などいろいろ問題はあるわけですが、そういう課題が解かれたあとに何が残るかというと<身体の偶然>だけが残るわけです。

 この偶然はなぜ偶然かといえば、生理的な死や肉体的な死だけが未解決の課題として残った場合には、人間の死というのは「形式」だけしかつかまえることができないからです。肉体的な死というのは、形式だけしか人間にはつかまえられないのです。あるいは、人間は形式をつかまえているだけなのです。

 人間は、自分の肉体で自分の死を体験することはできません。

親鸞から見た未来」

たまたま発生した一個の個体である自分、その自分の一個の死。これが解かれる日がくるのかどうか。人間は人間の死を解けるのか。偶然にしかすぎない発生と終焉、なんのために生きているのか、生きているとはなんなのか、生きている自分、死にゆく自分を認識する自分というものはなんなのか。なんなのかと考える自分の「心」とはなんなのか。疑問は尽きないし、おれはまだ十八願の光に包まれることもない。答えが知りたいのか、知りたくないのかもわからない。ただただ、煩悩具足の存在として、存在できるかぎり存在するというだけ……だ。

 

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