吉本隆明『言葉からの触手』を読む

 渡辺京二の『小さきものの死』の中で、吉本隆明の詩の一節とおもわれるものが引用されてたのね。

もしも おれが死んだら世界は和解してくれ

 これ読んで、なんかわからんけどいいなぁって思って、そういや吉本隆明の詩集とか読んだことねえやって思ってね。それで、図書館の書架に行ってみたら、全詩集みたいなのがドーンとあるわけ。いや、現代詩文庫みたいなのでいいんですけど……って、思ったら、端っこに「代表詩選集」みたいのがある。高橋源一郎の名前もあるし、最後は選者三人の鼎談とか載ってて、こっから行くか、と思ったわけ。

吉本隆明代表詩選

吉本隆明代表詩選

 で、なんというのか、選ばれた詩を読んでも、波長が合わないというか、あんまりグッとこねえなというところがあって。三人の中の高橋源一郎以外の二人のどちらかが「思想家としてより詩人・吉本隆明の方が重要なんだ」とか言ってたけど、おれはむつかしいことわかんねえし、詩はどちらかというと音楽に近い感じで、好きか嫌いか即断というか、そういうところでしか読めないんで、ああ、合わねえやって。宗教論とかの方がグッとくるなっていう。
 でも、面白れえなと思ったんが「思い違い 二極化 逃避」という詩……なのかなんなのかわからない代物で、たしか高橋源一郎が「こういう思考の過程までぜんぶさらけ出しちゃうのがすげえところなんだ」みてえなこと言ってて、まあ要するにそういう感じの何かなわけ。考察の断片というか、なんかこういうのはどういうことなんだろう? みたいなところを頭の中で考える、その「考える」をそのままのように文字にしているというか、うまく言えねえけど、そういうもんなんだ。 で、その詩集だかなんだかわかんねえこれを借りてみたと。ちなみに、文庫版じゃないやつで、装幀が菊地信義のハードカバーなんだけど、一見まったくの真っ黒で、貸出カウンターで「こちらでよろしいでしょうか」って言われたとき、どういう顔していいかわかんない(よく見たら背にかろうじてタイトルが読めた。同じような思いを埴谷雄高の本でしたことがある)。
 まあいいや、そんで、やっぱり全編に渡って、そういうなんというのか、思考の過程をつらつらと垂れ流しているようなものであって、これがなんか面白いんだ。もちろん、垂れ流しているわけじゃなくて、なんらかの詩的技法なり言葉の技法なりが使われてるにちげえねえんだろうけど、そういう感じなんだ。それで、その感じで出てくる考えが、やはり色あせてなくて刺激的でさ。これは買って持っておこうって思うような。
 そんで、こりゃもう次元の違う話なのは承知なんだけど、おれはあんまり賢くないので、「答え」みたいなものをね、書けないわけよ。この問題はこれこれこういう原因で起こっており、これこれこういう理由からこうするのがよいと考えられます、みたいな。そんで、それをたとえば読みやすく整理するとか、「◯◯を△△する15の方法」とかにまとめるのも無理。だから、せいぜい自分の考え「ていること」を書くしかないわけ。
 でもってよ、おれがネット上の個人の文章、すなわちブログに求めているのは、そういう考えている過程みたいなもんであって、正直言って結論とかどうでもいい。論とか結んで束ねてなくてよくて、脳の中で一個人がどんな風にものごとを考えているのかドバドバ垂れ流してくれてるほうが面白い。起承転結とか、結論から先に書けとか、そういうのはどうでもいい。ブログに書くことがないというやつは、書くことがないことについて浮かんだままにキーを叩いてほしい。おれはそう思う。