谷川俊太郎すげえな 『二十億光年の孤独』

 吉本隆明はこんなことを書いた。

わが国でプロフェッショナルと呼べる詩人は、田村隆一谷川俊太郎吉増剛造の三人ということになる。

 というようなことを吉増剛造のことについて書いたときに引用した。
 おれは田村隆一が中学生くらいのころから好きであって、吉増については先に書いたとおりだ。残りは谷川俊太郎ということになる。
 しかし、谷川俊太郎となると、いったいどこから手を付けていいかわからぬ。グレートすぎる感じがする。同じような理由で、おれは日本文学のメーンストリームの作家をほとんど読んではいないのだが、谷川俊太郎についても同じような印象がある。
 が、吉本隆明は次のようにも述べている。

谷川さんの本格的な詩、純粋詩の特徴は何かといえば、第一詩集『二十億光年の孤独』からそれほど変わっていないと思う。

 『二十億光年の孤独』。これである。なんとなく聞いたことのあるタイトル。そして第一詩集。ここから入ってみるべきだ。いや、入るかどうかわからんが……。

二十億光年の孤独 (集英社文庫)

二十億光年の孤独 (集英社文庫)

 というわけで、読んでみた。なんというか、打ちのめされるようだね。これが1952年の作品で、作者21歳くらい。じつにみずみずしいが、なんともひょうひょうとして、スケールがでかくて、思わずくしゃみをしてしまいそうになるね。しかもなんだね、父親も東慶寺にお墓があるような哲学者だったのだね。で、俊太郎青年、高校を出てブラブラしてて、その父に「お前どうすんの?」って言われて、時間稼ぎに「こんなん書いてます」ってノート三冊出して、父、こりゃすごいってなって、知り合いの三好達治にすぐに見せて、三好も大興奮、一気に詩人に、って具合らしい(解説から)。そりゃもう、そうだろうな。なんというか、本当に1952年のものだろうか、という気になる。いい部分、となると多いが、いくらかメモする。

かわいらしい郊外電車の沿線では
春以外は立入禁止である。
「春」

えへん わたくしはあるいている
ノートをかかえ 二十世紀の原始時代を
とことこ てくてく あるいている
はみかみながら あるいている
「わたくしは」

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい
「かなしみ」

地球があんまり荒れる日には
火星の赤さが温かいのだ
「地球があんまり荒れる日には」

火星人は小さな球の上で
何をしているか 僕は知らない
(或はネリリし、キルルし、ハララしているか)
「二十億光年の孤独」

君 この充実感はすごいなあ
「夕立前」

……部分、部分をひいてきてどうなるものか。しかしなんだろうか……。二十億光年の感覚、火星の感覚。稲垣足穂? ちょっと違う、ずいぶん違う。谷川俊太郎には深入りしない感じがある。滑るように言葉が選ばれて、純粋な水みたいな、ああ、うまくいえないな。いえなくて当たり前だな。だっておれは詩人でもなければ批評家でもないのだから。とはいえ、充実感すごいなあ。まいるね。あまりにも作品が膨大だから腰が引けるところもあるが、じわじわ手にとっていこうか。なにせおれはセリーヌ全集を読破したくらいの粘着力はあるのだ、ネリリング。
 ちなみに、上の文庫本は英訳版がまるまる入っている。詩の英訳とはこういうものか、というのがなかなかに面白い。一読あれ。