たいへんなことが起きる『続・藤井貞和詩集』(現代詩文庫104)を読む

 

続・藤井貞和詩集 (現代詩文庫)

続・藤井貞和詩集 (現代詩文庫)

 

枯れ葉剤

「あたしたちの坊やを
枯れ葉の下にかくしたの」
遠いテレビから聞こえる
「あたしたちの坊やを
枯れ葉の下にかくしたの」
遠いテレビから聞こえる

「あたしたちの坊やを
枯れ葉の下にかくしたの」
遠いテレビから聞こえる
「あたしたちの坊やを
枯れ葉の下にかくしたの」
遠いテレビから聞こえる

「あたしたちの坊やを
枯れ葉の下にかくしたの」
遠いテレビから聞こえる
「あたしたちの坊やを
枯れ葉の下にかくしたの」
遠いテレビから聞こえる

「あたしたちの坊やを
枯れ葉の下にかくしたの」
遠いテレビから聞こえる
「あたしたちの坊やを
枯れ葉の下にかくしたの」
遠いテレビから聞こえる

コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
たいへんなことが起きる

というわけで、たいへんなことが起きている藤井貞和の詩集である。おれはついこの間まで「藤井貞和」という名を知らなかった。高橋源一郎が小説『ゴヂラ』の冒頭で、「この本を悩める詩人(藤井貞和等)に捧げる」というようなことが書いてあり、なおかつ藤井貞和石神井公園あたりを掃除する人として、ほぼ主役のように出てきたので、少し気になったのである。その高橋源一郎がこの現代詩文庫の解説にも顔を出している。

 さて、藤井貞和の詩なのであるけど、知り合いの作家から、あのね現代史で面白いのなあいと頼まれた場合、わたしはいつも藤井貞和の詩を推奨するのである。

そして、上に引用した詩(表紙に一部引用されている詩でもある)について。

わたしら、たいていの半バカ読者は、最後まで読むと、この「たいへんなこと」とは何だろうかと深く悩むのである。あるいは、半バカな読者だけが悩むのである。作者とともに「たいへんなこと」に辿りつくのである。この「たいへんなこと」は修辞的なフレーズではあるまい。そして、また社会的な問題を指しているのでもあるまい。たぶん、この「たいへんなこと」は倫理的な問題である。もちろん、日常的な世界にも倫理的問題は発生し、また芸術の世界にも倫理的な問題は発生する。だが、作者はその中間の世界で、そのどちらへも往還することのできる倫理的問題を考えたいのだ。それが「たいへんなこと」だ。では、「たいへんなことが起きる」とどうなる。説明したいが、もう紙数が尽きた。残念、結局、重要なことはなんにも書かなかったよ。

……という具合だ。「昼間の日常的論理から少し外れていて、やや薄暗くなっているから薄らバカ的状態」の「昼でもなく闇でもない状態に宙吊りになっている」半バカ。ここに立ち止まらせる力が藤井貞和の詩にはある、のかもしれない。「歩いている人間を立ち止まらせるというのはたいへんですもん」だ。

「たいへん」なのか。おれはなにかの感想文を書くというのがたいへんに苦手で、あまり読んだことのない詩集となると、ますますなにを書いていいかわからなくなってしまう。それでも立ち止まってしまったのか。半バカなのか全バカなのか。

「革命家が死んでゆきあんなにも革命家を軽蔑した別の革命家が死んでゆきその別の革命家を軽蔑したまた別の革命家が死んでゆきすべての革命家が死んでゆく」

「てがみ・かがみ」(部分)

なにかこう、テンポがあって、スタイルがあって、冒険している、あるいは遊んでいる、挑戦しているところがある。なにに? コトバに? 日本語に?

あけがたには

夜汽車のなかを風が吹いていました
不思議な車内放送が風をつたって聞こえます
……よこはまには、二十三時五十三分
とつかが、零時五分
おおふな、零時十二分
ふじさわは、零時十七分
つじどうに、零時二十一分
ちがさきへ、零時二十五分
ひらつかで、零時三十一分
おおいそを、零時三十五分
にのみやでは、零時四十一分
こうづちゃく、零時四十五分
かものみやが、零時四十九分
おだわらを、零時五十三分
…………

ああ、この乗務員さんはわたしだ、日本語を苦しんでいる、いや、日本語で苦しんでいる
日本語が、苦しんでいる
わたくしは眼を抑えてちいさくなっていました
あけがたには、なごやにつきます

どうだろうか、どうなんだろうか、わかるだろうか、東海道線。日本語を苦しんでいる乗務員、詩人、あるいは半バカのわたしたち。そして、日本語が苦しんでいる。わからん。わからんが、立ち止まろうという気にはならないか? ならないならそれでいいし、なったところでおれはしらない。

 

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