また穂村弘かよというとまた穂村弘である。とはいえ、今度の穂村弘は本業の短歌の……「読み解きエッセイ」とあるな。やっぱりエッセイか。
ところでおれには短歌がわからん。ときどき俳句とごっちゃになることすらある。おれのこの無駄に長く書いてきた日記で短歌と検索す。
藤井貞和『ピューリファイ、ピューリファイ!』を読む(青空文庫でもけっこう読めます) - 関内関外日記
帰り行くバースのうしろ 純白の魂一つ光り浮く 見ゆ
バースは神様か天使かなにかなのであろう。
和田久太郎『獄窓から』を読む〜欠伸より湧き出でにたる一滴の涙よ頬に春を輝け〜 - 関内関外日記
欠伸より湧き出でにたる一滴の涙よ頬に春を輝け
涙よ頬に春を輝け、というところかなり好き。ところでみんな和田久太郎を知っているだろうか。大杉栄の敵討ちに福田戒厳令司令を暗殺しようとして失敗した、人のいいアナーキストだ。
平凡に吾はあり来し吾よりも出来よき友も多く平凡に過ぎぬ
歌集を買ったことすらあるじゃないか。
このくらいである。おれは短歌を知らぬ。なので、勉強する必要がある。わからないことについてはまったく触れないか、あるいは勉強する必要がある。必要はないかもしれない。
本書にはさまざまな時代の様々な人々の短歌が紹介されている。穂村弘という人の短歌も紹介されている。そして、読み解いてくれる。いや、読み解く一歩手前というか、「ぼくはこんなふうに感じたんだけど、あなたはどう思いますか?」という感じがする。そして、その裏には「あなた、ちょっと短歌やってみませんか?」という意図が透けて見えるようにも思える。警戒、警戒、警戒と、ラヴレンチー・ベリヤは書き残したり。
というわけで、紹介されている短歌のなかで気になったものをいくつかメモする。おれは歌人も知らぬので、詠み人(というのかな)が有名な人か市井の人かもわからない。本当は歌人の名前は改行右寄せだけれど、一字開けにした。読みやすいように歌はボールドにしている。
よくわからないけど二十回くらい使った紙コップをみたことがある 飯田有子
これが本書の本編で最初にとりあげられている短歌だ。「これが短歌か」と、ぐいっと読者を引き込む力がある。著者の読み解きは本書を読まれたい。しかし、いろいろな歌を分類しているのだが、最初が「コップとパックの歌」というのはどうなのか。
スカートを履いて鰻を食べたいと施設の廊下に夢が貼られる 安西洋子
高齢者の施設であろうと穂村弘は推測する。おれもそのように思う。痛切な歌のように感じる。そうだ、穂村弘は「改悪例」を書くことがある。この歌の改悪例は次のようなものである。
お洒落してレストランに行きたいと施設の廊下に夢が貼られる
なるほど、痛切さがまったくなくなってしまう。
「花的身体感覚」という章では次のような歌があげられている。
生理中のFUCKは熱し
血の海をふたりつくづく眺めてしまう 林あまり
とか。
性交も飽きてしまった地球都市
したたるばかり朝日がのぼる 林あまり
とか。
体などくれてやるから君の持つ愛と名の付く全てをよこせ 岡崎裕美子
とか。なんというか、強い。強くて生々しくある。三つ目の歌など、なにか怖くなってしまう。ぶるぶる。
これに続くのが「するときは球体関節」という章。
もちあげたりもどされたりするふとももがみえる
せんぷうき
強でまわってる 今橋愛
著者は「やはりセックスの情景に他ならないだろう」とか書いているが、おれは「エッロー」と思ってしまった。
短歌にはリズムも重要だ。
銀杏が傘にぼとぼと降つてきて夜道なり夜道なりどこまでも夜道 小池光
これを穂村弘は「陶酔感に充ちた一首」という。しかし、ここには冷静な計算も働いていて、「夜道なりけり」にすると定型におさまると言う。
銀杏が傘にぼとぼと降つてきて夜道なりけりどこまでも夜道
しかしこれじゃあ「夜道なり夜道なり」のリフレインの効果がなくなっちまうぜ、ということらしい。夜道の永遠性が失われる。なるほど。
おれでも知ってる有名な人の短歌もとりあげられていた。
売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき 寺山修司
おれにとって寺山修司は虫明亜呂無などと一緒に競馬の人なのであるが(JRAは寺山修司賞を作るべきではないか)、なるほど、こんな歌を読んでいたのか。
マウンドにコーチ・内野手駆け寄れば我も行かねばテレビの向かふに 川西守
こんな歌もある。これはいい。野球ファンの心をうつ。おれも行かねば床田のところに。
「子供の言葉」という章では、おもに子供の言葉を歌う老いた人の歌がとりあげられている。
「じいちゃんはいつごろしぬのおとうさん」満四歳の東京の孫 鉄本正信
こんなん、強い。なんというかわからないが、おれは今これを記した人と満四歳の孫のちょうど真ん中あたりにいるのかな、などとも思う。おれに子も孫もできる予定はないけれど。
「身も蓋もない歌」という章もある。雑誌の短歌欄に投稿されてきた歌。
ハブられたイケてるやつがワンランク下の僕らと弁当食べる うえたに
思わず制服を来て学校に通っていたころにタイムスリップしてしまうような歌だ。スクールカースト、いや、もっと具体的ななにか。そして、「イケている」やつだったやつだろうと、ワンランク下の僕だろうと、弁当食べるという学生のイケてなさというのもなにやらおもしろい。
また、「身も蓋もない歌」から。
これはかなしい。よく、「ブルース・ウィリスみたいな大金持ちだって解決できないんだ」なんて言われるが、三百年のスケールには負ける。でも、三百年たったら、受け取り手がハゲをなんとも思わないという方向で解決されているのかもしれない。
が、同じ人の作品が隣に並んでいる。
現実を逃避したとて現実を逃避しているという現実 松木秀
頭皮……ではなく逃避したとて、なるほどそれも現実だ。現実はどこまでも追いかけてくる。しかし、現実が現実でなくなる恍惚の状態も人間にはあるかもしれない。などと想像するのもやはり逃避の現実か。
「貼紙や看板の歌」という章もある。貼紙や看板を大胆に取り入れた歌だ。
「軽井沢に跳梁跋扈する悪質な猿の特定が急がれます」とぞ 花山多佳子
「作者の言葉は『とぞ』の二文字だけ」と穂村弘。しかし、この貼紙のおもしろみは、読者に素早くパスされる。なるほど、これも短歌か。このような街なかの言葉になにかを見出すのは、たとえば次の本などだろう。
リアルな言葉はどこにある? 〜都築響一『夜露死苦現代詩』〜 - 関内関外日記
あるいは、こんな歌。
眉間に蜂迫りきて背ける目は見たり「蜂に注意」といふ看板を 花山多佳子
これについて穂村弘は、「蜂」は「死」を連想させると書いている。そう言われると、そうなのかも、と思ってしまう。ただ、穂村弘は、けっこうな数の歌それぞれの小さなリアリティに人間の生死を見出しているような気はした。
そんな穂村弘が自分でとりあげた歌。
髪の毛がいっぽん口に飛び込んだだけで世界はこんなにも嫌 穂村弘
世界とはなんだろう。それを思う自分とはなんだろう。そんなふうに考えてもいいだろう。でも、これも「身も蓋もない」と捉えてもかまわないだろう。たぶん。
世界についてはこんな歌。
ポケットから落ちてく財布キャッチして平行世界のこちらの僕です 弱冷房
思わず膝を打つ、という言い方は古いかもしれないが、いやこれはよくわかる。お気に入りのマグカップをうっかり割ってしまった瞬間、熱々のカップスープをこぼしてしまう瞬間、そんなときに、世界はスローモーションのようになって、「ああ、ちょっと気をつけていれば」、「横着しなければ」と思うのだ。そして、思いはちゃんと注意していた平行世界へ飛ぶ。もうこれはSFかもしれない。いやはや。
「平仮名の歌」から。
するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら 村木道彦
「作者の代表歌である」とあるので、歌人の一首なのだろう。でもって、技術的な面からいうと、「する」「だろ」「たる」「たり」「マロ」「ばり」「がら」がラ行音の連鎖になっているという。ぷよぷよみたいだな、短歌。そして、その柔らかさが「マシュマロ」に通じている。奥が深いな、短歌。
「繰り返しの歌」の章。こんなの。
ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり 永井陽子
鏡合わせのような歌。
これも「ん」の連鎖がある。
好きだった雨、雨だったあのころの日々、あのころの日々だった君 枡野浩一
そしてこんなん、うーん、あえて言えば「エモい」。
穂村弘は会社の人でもあった。「会社の人の歌」から。
UFOが現れたとき専務だけ「友達だよ」と右手を振った 須田覚
この歌には改悪例があって、専務が「主任」でも「詩人」でもおもしろくなくなる。専務の妙味がある。
わたくしはけふも会社へまゐります一匹たりとも猫は踏まずに 本多真弓
これにも改悪例が示されている。「海へ行かずに」などでは弱くなってしまう。猫は踏まずにだからこそ、反「社会」の世界へ行ってるんだという。にゃー。
三十歳職歴なしと告げたとき面接官のはるかな吐息 虫武一俊
おれにはいちおう職歴はあるが、もう四十過ぎているし、面接までもたどり着けないだろうな……。おれもどこか「会社」「社会」からはるかな隔たりがあるような気がして、日々生きている。
また、短歌の技術的な面へ。「唐突な読点」から。
牡蠣フライ家で揚げると熱々でいつも誰かが火傷する、口 岸本恭子
なにかこう、「口」の置き場に困ってしまって、ここに置いたらおもしろいんじゃないか、みたいな印象を素人のおれはうける。牡蠣フライを家で揚げるという余裕と団らんがあって、そっからぴょーんとはねた感じもうける。
あえて言えばエモいのはこんな歌。
約束を残したまま終わっていくような別れがいいな、月光 杉田菜穂
あえて言えばエモい。
縁石に乗り上げながら心から私は右へ曲がりたし、今 石川美南
これはおもしろい。この歌について著者は「今」によって「心から」が信じられる、と述べる。でも、たとえばこれも人生を例えた歌だったらどうだろうか。人生の岐路があって、右に行きたいのに縁石に乗り上げてしまっている。こんな解釈もありだろうか。
「間違いのある歌」というのもある。
あのね、アーサー昔東北で摘んだだろ鬼の脳のやうな桑の実 岡井隆
「脳」は「なづき」と読む。そんな読み方知らなんだ。で、この歌のどこに間違いがあるかというと、著者も参加していた互選歌会で起こったことで、作者は「兎の脳」と書いたのを、間違って「鬼の脳」と読まれたのだという。しかし、その間違えた「鬼の脳」の方がいいとした。偶然の添削を受け入れた。こういうアクシデントも短歌の世界にはある。あるいは、いろいろな世界で。
「ハイテンションな歌 現代短歌編」。
さくらさくらいつまで待っても来ぬひとと
死んだひととはおなじさ桜! 林あまり
さっきもあったっけ、林あまりさん。なんかグサッとくるところが個人的にはある。
グサッといえば、「殺意の歌」だ。そうだ、おれにはとくべつ好きな殺意の歌があった。
一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと 石川啄木
これはいい。そうだ、おれが一番好きな短歌はこれだ。で、本書でも石川啄木は登場する。
どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな 石川啄木
もう、無差別殺人である、石川啄木。
夢野久作も物騒だ。
人の来て
世間話する事が
何か腹立たしく殺し度くなりぬ 夢野久作
いや、世間話で殺されてたらやってられんわな。
……と、おれのよくわからない短歌勉強もこのあたりにしておこう。短歌を読もうとは思わないが、ものを書いていて「このフレーズ短歌っぽいかも」と思うこともあるかもしれない。ただ短歌というは生死や愛憎や世界をポケットに入れてしまえる方法かもしれないと思ったりもする。是か非か。