藤井貞和の詩集『ピューリファイ、ピューリファイ!』を読んだ。Amazonにも楽天にも取扱がないので、写真を載せる。
藤井貞和といえば……。
これである。これを読んで、「ちょっとかっこいいな」と思ったのである。おれが詩歌に求めるのは「言葉のかっこよさ」のみであって、いくら真善美が含まれていようと、革新的な試みがなされていようと、そんなん関係ないのである。
その点で音楽に似ている。どんなに奥深いバックボーンがあろうと、高度なテクニックが駆使されていようと、斬新な技術が用いられていようとも、身体にドキドキ、ゾクゾクと来るものがなければなんとも面白くない。そして、その身体的な感覚を他人と共有できるのかどうか、おれにはさらにわからない。多くの人々を魅了するヒット曲がおれにはいまいちということも少なくないし、だれも知らないような一曲におれだけが感動することもあるだろう。時代もジャンルも関係ない。ビビッとくるかどうか、それだけだ。
さて、藤井貞和のどのあたりがかっこいいか……。って、なんだ、ほとんど青空文庫で公開されてるじゃねえの。
『ピューリファイ、ピューリファイ!』のなかから「日本の詩はどこにあるか・続」20篇を一冊としてまとめた。その際、何カ所か書き改められたので、最新版ということもできる。
たぶん著作権の切れている本ではないが、なんらかのなにかがあって公開されているのだろう。いい時代である。でも、まあおれの気に入った断片を。
死ぬまでの、ね、
極道があるいている、降らない雨にぬれて。
遠吠えひとつ、それからどうする。
いくらで売る、軽い石及びいのちのつまる首。
着流しに、
暮れるあいくち、血の空だけがぼくらの友だち。「死ぬまでの極道」部分
よくわからんが、かっこよくないか? え、ひどい感想だって、でも、いいじゃないか。なんか、こう、「暮れるあいくち、血の空だけがぼくらの友だち。」ってこられると、「おお」と思うじゃん。……ああ、おれは詩の感想を書くのに向いていない人間だ。
あるいは、こんな詩もある。題名は「ランディ ―病の子にふれて解雇されたと聞き―」。もう、これだけで昭和野球ファンはグッとくる、かもしれない。一部引用する。
その日なり バース来たりぬ
打つ人のバース 来たりぬ―
ビッグヒット ホームランなり 君は打つ 何をいまさら―
君は打つ むだにあらずや―
しかれども、打ちははやらず― 魔神 君 むしろ無造作―
場外へ運ぶ 純白―
この詩の最後は(反歌)で終わっている。
(反歌)帰り行くバースのうしろ 純白の魂一つ光り浮く 見ゆ
よくわからないが、すごくよくないか。「これは野球、バースという見かけの題材を使い、云々」というむつかしい解釈もできるのかもしれない。でも、おれは「ああ、バースだなあ」と思うのである。それだけである。野球の歌といえば「円城寺 あれがボールか 秋の空」(詠み人知らず)がよく知られているが、この複雑な構成(いや、俳句とか短歌とかしらねえし)のこれもすげえいいぜ。暗記したくなるぜ。そうは思わないか。感じないか。いや、その共感を筋道立てて説明することなんて、おれにはできねえし、できねえならそれまでだし、それはそれでいいとするだけのことである。以上。