穂村弘『野良猫を尊敬した日』を読む ―どうしても書きたいことがあるから書くのか?

 

 

 

このごろ穂村弘の本ばかり読んでいる。読むのが楽だからだ……というと、なんか失礼な感じがする。とはいえ、読んでいて楽になれる感じはある。このところおれは心身ともに弱っていて、ちょっとむずかしい本、歯ごたえのある本は読めそうにない。しかし、穂村弘の本がむずかしい問題を扱っていないわけではない。それでも、言葉がふるんふるんしていて、とても優しいのだ。

と、この「ふるんふるん」というのは『野良猫を尊敬した日』に出てきた言葉だ。

 会社員時代に喫茶店で商談をしていたとき、目の前をババロアがふるんふるん揺れながら運ばれてゆきました。でも、「部長、ほら、ババロアふるんふるん」とは云いませんでした。そんなことをしたら、一瞬でこいつは危ないやつと思われてしまうから。

ババロア

これは出版記念のトークイベントで語った話だという。で、そのあとのサイン会でこんなやりとりになる。

客「あの、一つだけ訊いてもいいですか」

ほ「はい、どうぞ」

客「ババロアって緑の奴ですか」

ほ「……」

 混乱した。「ババロアって緑の奴ですか」ってどういう意味ですか。わからない。でも早く答えないと、次のお客さんが待っている。咄嗟にこう返した。

 

ほ「あ、いや、それはたぶんゼリーじゃないかな」

客「ゼリー……、そうですか」

 

 お客さんは曖昧な表情のまま去っていった。

そして、次のお客さんにこう訊かれたのである。「ババロアってパンナコッタみたいなのでしたっけ」と。

ここに穂村弘は世代差というものを深く感じ、同じネタを「プリン」で話そうと決意するのである。

まあいい。問題はおれがこれを頭の中になにが浮かんでいたかという話である。「緑の奴」でもないし、「パンナコッタ」でもない(パンナコッタってどんなんだっけ?)。シュークリームのような生地で細長くてチョコレートでコーティングされていて、真ん中にクリームを挟んでいる菓子である。

……いま、必死に考えて出てきた。「エクレア」だ。もしもおれがサイン会に並んでいたら、こうたずねたかもしれない。「クリームがふるんふるんしたんですか?」と。

ちなみに、ババロアはフランス語で「バイエルンバヴァリア)」が由来だという。狂王ルートヴィヒ2世も食べたんだろうか。うーん、ムースみたいなやつ。穂村弘とは同年代のような気がしていたのだけれど(実際は違うけど)、やはり世代差なのか。いや、ババロアだって初耳ではないし、食べたことだってあるだろうに、浮かんでこなかったのだ。

斯様に、言葉というものは難しい。伝わらない。伝わらないのに、なんか読んでしまった。本来なら、ババロア……? と思った瞬間に携帯端末に視線を送って、画像検索でもするべきだったのかもしれない。だが、おれはこの文章を曖昧なままに読んで、曖昧なままここに引っ張り出してきてしまった。自分のなかで、「ふるんふるん」はいいな、でも、なんかわかんないな、って。まったく、しかし、こんなものかもしれない。

「こんなもの」と言ってしまっていいだろうか。穂村弘は言葉に賭けていた。

 私は会社員だった。本当は物書きになりたかったけど、働かないとお金が貰えない。通勤は片道一時間四十五分。毎日終電で帰って、眠るまでの間に三十分くらい短歌や文章を書くという生活だった。

 そして、ずっと待っていたのだ。或る日、自分のもとに届くはずの一通の手紙を、一本の電話を。

 「あなたには才能がある。前からすごいと思っていました。本を出版しませんか」

 でも、待っても待ってもどこからも連絡が来ない。

「シンジケート」

そして、会社員になって貯めた百万円をはたいて自費出版をする。それが『シンジケート』だ。

 終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて

 サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるせつないこわいさみしい

 体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ

ほとんど反響はなかった。私は絶望してすべてに無感覚になった。だが、半年後、新聞の文芸時評に『シンジゲート』が紹介された。無名の作者の自費出版の歌集なのに、と驚き、「三億部売れてもおかしくない」という言葉に目を疑った。執筆者は作家の高橋源一郎さんだった。

見てる人はいた。でも、神様のように見てるわけではなかった。見てる人の視界の中まで、こちらから、よろよろとよろめきながらでも出て行かないと駄目なのだ。しかも、それを何度も何度も、生きている限り繰り返すしかない。

これはすごいよな。高橋源一郎もすごいけど、貯金全額の百万はたいて自費出版した穂村弘もすごい。前に「決断をしたことのない人生」というようなことを書いていたが、ちゃんと決断しているのだよな。

実のところ、ここだけの話、おれも物書きになれればいいなと思っている。少なくとも、零細企業の一番若手を二十年続けているよりいいはずだ。だから、おれも一通のメールを待っているといっていいかもしれない。

とはいえ、こうやってブログにだらだら文章を書いて公開し、いくばくかの人に読まれることに満足してしまっている。おまけに、同人誌を「人の金で人に作ってもらって人に売ってもらう」というありがたい事態を「こんなこともあるのか」といって終わらせてしまった。

おれには物書きになりたいという気持ちが足りないのか。書きたいことがないのか。穂村弘は「どうしても書きたいこと」というエッセイでこんなことを書いていた。

 インターネットを見ていたら、誰かがこんな発言をしていた。

 

 どうしても書きたいことがあるから作家になるのが本当の姿。何もないのに作家と呼ばれたい気持ちだけがあって、そこから書き始めるのは順番が逆だろう。

 

 ぎくっとする。「どうしても書きたいこと」、私にあるかなあ。

 そんなことを思っている時点で、もう失格なのだ。考えなきゃわからないような「どうしても書きたいこと」なんて、おかしいだろう。

作家、あるいは漫画家でもなんでもいいけれど、そう呼ばれたいから書いたり描いたりする、順番が逆だ。よく見る意見だ。が、穂村弘は「ぎくっと」してしまう。

 冒頭に引用したような「どうしても書きたいことがあるから作家になるのが本当の姿」的な意見には、ときどき出会う。そのたびに後ろめたい気持ちになる。本屋さんに本を置きたいという理由でもいいんじゃないかなあ、とはなかなか口に出せない。

言葉はバイオリンやピアノやギターとは違う。全くの素人がいきなり弾くことはできない。絵画もそうだ、という。だが、文章は多くの人が読み書きできる。素人の一撃がありうる世界だ。あまりにも分母が大きいというべきか、山の裾野が広いというべきか。

が、それでも、こう書く。

 自分の中に燃えるような「どうしても書きたいこと」があれば、問題は生じないのかもしれない。それならば、確固たる技術がなくても、他の誰かが何を書いても、少なくとも根本的なスタンスは揺るがないだろう。でも、困ったことに、自分にはそれがないのだ。

 だが、そんな私にも救いはある。表現以前に「どうしても書きたいこと」が必要という考えが唯一の正解ではない、と思うのだ。

 だって、その考えに従えば、言葉というものは、自分の中に予め存在する「どうしても書きたいこと」を外の世界に伝達するツールということになってしまう。

 本当にそうなのだろうか。ものを書く現場における私の実感は違っている。

 今ここで書き出すまで、自分でも自分が何をするのかわからない。

言葉はその場で生まれ、勝手に走り出すことがある。一つの言葉が次の言葉を呼ぶ。

 その結果、「わけもわからず書いてしまったもの」が、未知の世界の扉を開くことがあるんじゃないか。予め存在する現実とそこに生きる自分という常識的な認識が覆されて、何かが表現された瞬間に、新たな世界と私が生まれるように感じられるのだ。

これは、いいな、と思った。すごくいい。おれも、言葉がただの「伝達のツール」だとは思わない。それだからこそ、素人の一撃だってある。わけのわからないなにかだ。そのわけのわからない言葉というものをおれは愛する。そして、わけのわからないままに、こうやってキーを叩いていたい。指がちょっと血を流し始めるまでパーカッション楽器のように酔っぱらってキーを叩け。あ、ブコウスキーね。

穂村弘は十七年間会社員生活を送った。急に出てきたブコウスキーもポスト・オフィスで長く働いた。おれもそれ以上ながく、会社員をしている。年収は三百万円に届かないし、百万円の貯金もない。それでも、あるいはこの日記を書きつづけていたら、一通のメールが来るかもしれないと思って。

……文章だけ書いて暮らしてえな。

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goldhead.hatenablog.com

「短歌はわからん」と言いながら、本書で作者が『シンジケート』からひいた三つのうち二つを当てているのだから、おれ、結構すごくね? ワイド馬券当たってね? とか思った。