これは恋の夢 穂村弘『現実入門』を読む

 

現実入門―ほんとにみんなこんなことを? (光文社文庫)
 

「エッセイ集『世界音痴』拝読しました」

「ありがとうございます」

「とても面白かったです」

「ありがとうございます」

「で、当社でもエッセイの連載をお願いできないかと思いまして」

「どんな感じのものでしょう?」

「『世界音痴』のなかに『人生の経験値』という文章がありますね」

「はい」

「ほむらさんは、海外旅行も独り暮らしも結婚もされたことがなくて、人生の経験値が極端に低いという……」

「ええ。ソファーの部屋に住んだこともありません」

「凄いですね」

おれは『世界音痴』を拝読してはいないが、これを書いたときの著者と同じくらいの中年で、同じくらい「人生の経験値が低いな」と思った。なので読んだ。

 私は今日まで決意や決断というものを極力避けて生きてきたのだ。そのために四十歳の今も『ドラえもん』ののびたのようなつるんとした顔をしている。子供顔というか、ニュアンスの乏しい顔というか、顔面から読みとれる情報量が極めて少ないのだ。四十年間決断を避けてきた人間の顔からは、そのひとが生きてきた時間の痕跡を読みとることが難しい。

そう、そうなんだよ、おれもそうなんだよ。おれも四十にして人生で刻み込まれてきた皺というものがない。チー牛。『にょっ記』で著者が山崎努の顔まねをする話があったと思うが、ともかくそういう渋みがない。だからおれは無精髭など生やしてごまかしている。開けたのはだいぶ前だが、左耳に三つのピアスつけて、なんらかのニュアンスをつけようとしている。

というわけで、本書はそんな著者がいろいろの体験をするというていの本である。献血、モデルルーム見学、占い、ひとの結婚式に参列する、合コンをする、祖母を訪ねる、はとバスツアーに参加する、ブライダルフェスタに行く、健康ランドに行く、ホルター心電図検査をする、お父さんになってみる(小さな子どもと遊んで過ごす)、競馬場で馬券を買う、ウェディングドレスの仕立てにつきあう、相撲を観る、部屋を探す、そして……。

ちなみに、おれが体験したことのあるのは「合コン」(大学一年生のとき一回だけ)、「ホルター心電図検査」(https://goldhead.hatenablog.com/entry/20130207/p1)、競馬、部屋を探す、だ。少ないだろう。

で、この手の体験エッセイものといえば、やはり東海林さだおだろう。おれの言葉の根幹にある書き手だ。「はとバス」を読んだときに「東海林さだおだな!」と思ったものだ。

ただ、東海林さだおについている編集者は、だいたい若い男のような気がする。一方で、穂村弘についている編集者は女性のサクマさん、だ。そこが違う。そして、それが本書の最大の仕掛けになっている。現実に入門するていになっていながら、実のところ穂村弘の虚実に飲み込まれているのだ。たとえば、「はとバス」もの一本だけで比べたら東海林さだおの方がおもしろいかもしれない。しかし、この本一冊の構想となると、ちょっとすごいものがある。

おれのなかに出てきた感想は「恋の夢」、これである。『現実入門』のはずが「恋の夢」だ。「恋の夢」とは、相手もはっきりせず、昔の同級生だったり、有名人だったり、まったくだれかわからない人だったりして、それでいて、恋をしたという思いばかりが残る。目が覚めても残り、そのあいまいな感傷だけが何日も続く。この本には、それがある。これはなかなかにすごいところがあるので、ぜひとも読んでもらいたい。

で、虚実といったが、実のところどうなのか? というのは多くの人が気にするところであって、Googleで「穂村弘」と打ち込むと、それに関連したキーワードがサジェストされる。それを読めば実のところは簡単にわかるので、ここには書かない。

いずれにせよ、一級品のエッセイであって、なおかつ壮大な仕掛けがある。仕掛けとわかりつつも、おれのようなおっさんが「うあー」となってしまう。あるいは、おれのようなおっさんみたいなのだけが「うあー」となってしまうのかもしれないが、あまりにも見事に誘導されてしまったものとして、やっぱり読んでもらいたい。読んでもらいたいから二度書いた。いや、三度か。どうでもいい。おれはこの本を読んだあと、何日か恋の夢の中にいるような気になってしまったのだ。