人みな死ねといのりてしこと

 このあいだ、ブックオフ石川啄木の本を買った。なかにこんな歌があった。

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと

 すばらしい。解説によると、この「頭を下げる」は「カネを借りるために頭を下げる」ことらしい。どうであれすばらしい。啄木は「俺ほどの人間が」と思い、ついには共産主義アナーキズムにひかれていったようだ。俺も「俺ほどの人間が」と思って生きている。いや、まったく本当の話だけれど。
 嘘でもいいからさわやかな気分になれる話が聞きたい。「虐めっ子が死んだ」。すばらしい。掛け値なしに。
 俺もしょっちゅう死ねばいいのにの念を浴びせている。誰に? 昔のいじめっ子に? いや、そんなものよりもっと身近で具体的なもの。目の前を走る高級車、轟音をひびかせる高級オートバイ、軽やかに信号を無視していく高級ロードバイク。俺はさわやかに、フラットに、カジュアルに「死ね、おもしろい死に方しろ、俺をいい気持ちにさせろ」と念じる。ところが、気持ちよく走っていくのは向こうの方だ。いつもいつも。俺は「みな死ね」と思っていて、あまりそうなった試しがない。嘘でもいいから、気持ちのよい話を聞きたい。
 露悪趣味でもなければ、自傷的な表現で社会を批判するアピールでもない。このあたりは、どうにもこうなのだ。なにか、完全にハートが欠落している。さわやかに、フラットに、カジュアルに、死ねばいいのにと。いつからこうなのかは分からない。いつの間にかこうだったし、これが当たり前だった。べつにその金持ちが、威張ってるやつが、権力者が、過去にどんな辛い思いを乗り越えてきたとか、愛する子供と幸せな家庭があるだとか、そんなことは関係ない。またあるいは、その金持ちが落ちぶれたあとに死んでもかわらない。たとえ彼がいまいじめっ子でなかったとしても。
 そしてまた、フラットに、誰か俺をバタフライ・ナイフでブッ刺さないか、ダンプカーでひき殺さないか。もううんざりしている。目に見えない悪意が、善意の顔をして俺の息を苦しくする。どうせならわかりやすい暴力にさらしてくれ。死んで欲しい、死んで欲しいと思われてる。殺したい、殺されたい。生き残りたい? いや、別に。

尋常のおどけならむや
ナイフ持ち死にまねをする
その顔その顔

 よくわからないが、なにかが欠落している。俺だっていくらか本を読むし、人間らしいふるいまいの真似っ子もできるかもしれない。ハートのある人間にスターをもらえることを言えるかもしれない。だが、俺の根本はここであって、どうにもよくわからない。
 だから俺は、ハートのあるやつがハートのないやつを批難していると、どうもハートのないやつの側に立ちたくなる。頭も良くてハートのあるやつが、頭も悪くてハートもなさそうなやつを、その善意で教え諭そうと、なにかに気づかせようとしているのを見ると、胸糞が悪くなる。まあ、だいたい胸にしまい込むけれど。
 でも、この世の中でまったくすくわれなさそうなやつがすくわれてくれなければ、俺のようなものもすくわれないだろうと思う。俺よりハートがなくて、頭も悪くて、誰からもすくわれないようなやつがすくわれたら、俺もフラットな悪意をだれかに向けることもなくなるんじゃないかと思う。まったくの本音で、俺は俺だけどうにか生き延びたいと思うが、かえって俺よりすくわれなさそうなものがすくわれた方が、俺もついでにすくわれるような気もする。俺よりハートがあって、頭のいいやつはすくいなどいらないかもしれないし、もっと簡単で、わかりやすいものにすくわれるかもしれない。だったら勝手にすればいいし、俺は俺ですくわれたいし、なんとなれば俺だけすくわれてもいいが、俺よりハートのないやつがすくわれれば、俺もついでにすくわれるような気がしている。もしも俺がこの世で一番ハートがなくて頭のわるいやつだとしたら、俺はまっさきにすくわれるのだろうと思う。

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