佐藤優『資本主義の極意』を読む

まず言っておくと、おれは経済とかぜんぜんわかんねーし、金というものは好きだが、それを得るためになにかしようという努力はまったくねーし。

 

資本主義の極意 明治維新から世界恐慌へ (NHK出版新書)
 

 

 将来に必要なカネのことを考えると、明るい展望はまったく見えてこない。生存や生活がすべてカネに換算され、カネのない人間は社会から排除されてしまうような思いさえ頭をもたげてくる。

 自由な社会のはずなのに、束縛しか感じられない日本人が今や多数派を占めています。

そうだ、まったく明るくない。自由はない。おれのこの二ヶ月の手取りは五万円と五万円で十万円だ。預金を切り崩して生きている。生きているふりをしている。おれが無能なのはおれの自己責任だし、居場所を変える勇気がないのも自己責任なのだから仕方がないが、なんで経済ってうまく回らないんだ。おれみたいな能無しでも、社会の片隅でひっそりと暮らしていけるように回っていかないのはなぜなんだ。経済学というものが世に出てから何年経つ? 資本主義というものが確立してから何年経つ? それでも、なんで食うや食わずの人間が出てしまうのか? その極意を聞いてみようじゃないか。

……とか言ったところで、冒頭に述べたとおり、おれ算数からわからんし。「労働力の商品化」から資本主義のシステムがはじまりました。うんうん。「生産手段からの自由」。うーん、うん。「……たとえば、機械化を図れば、人手は少なくて済む。そういう形で、合理化が進んでいくわけです。その結果、再び社会には余剰人口が形成されます。と、同時に会社は利益率がよくなるので、儲かり出す。それで再び好況がやって来る。好況になると賃金が上がるから、また恐慌になる。こういうふうに恐慌とイノベーションを繰り返して、資本主義はあたかも永続するかのごとく続いていく、というのが宇野弘蔵の考え方です」。うーん、うーん。

ようわからんですね。でも、どうも末端の労働者にとっていい感じの話というのはないようです。

資本家は、商品の生産に必要な材料として労働力を購入しているにすぎません。材料費なのだから、安ければ安いほどいい。だから、未曾有のバブルが起きても、労働者はその恩恵にあずかることはできないのです。

ふーむ。そして、現代の独占資本は多国籍企業だとおっしゃる。アベノミクスでうまい汁を吸ったのも外国人株主ばかりだとおっしゃる。

ずーっと昔、河上肇という人はこう書いた。

世間にはいまだに一種の誤解があって「働かないと貧乏するぞという制度にしておかぬと、人間はなまけてしあたない者である。それゆえ貧乏は人間をして働かしむるために必要だ」とうような議論もあるが、少なくとも今日の西洋における貧乏なるものは、決してそういう性質のものではなく、いくら働いても、貧乏は免れぬぞという「絶望的の貧乏」なのである。(河上肇『貧乏物語』岩波文庫、三十五頁)

 というわけで、制度、再配分というものが必要なのかも知れぬ。が、そんなピケティが言うような再配分というのは、結局国家権力というものが行うものであって、容易にファシズムの経済論に転じることもあるよ、ということらしい。ふーん。

高望みはせず、しかしあきらめないこと。飛び交う情報に踊らされず知識をたくわえ、自分のアタマで考えること。平凡なようですが、これが資本主義とつきあうキモです。

まあそうなんだろうね。でも、おれもうそういう「考える」なんて余裕ねえし、やっぱり生まれてきた時代が悪かった。はやくショットガンでおれのアタマをふっ飛ばしてくれ。そればかりだ。