おれがどれだけ高橋源一郎に影響を受けてきたかは、今までたくさん書いてきたのでいちいちリンクを貼らない。お前が調べろ。辻信一という人は知らない。
で、いくつかチェックすべきところもあったが、読み終えて数日経ってしまって、「べつにいいか」と思ってしまった。
なんというのだろうか、とくに「スローライフ」だかを唱えている辻さんの方に言えることなんだけれれども、もう「弱さ」も「雑」もねえぜって思ったのだ。そりゃあねえ、資本主義を煮詰めたような世界で、逆に「弱さ」や「雑」というところに注目してみる、その価値をはかってみるというのは、当たり前すぎるほど当たり前で真っ当だとおれも思うよ。でもな、おれの目の前に広がる世界というものは、精神障害者でありながらなんとか生きるために労働にしがみつき、どうにかして食っていくというリアルであって、なにそんな呑気なこと言ってんだよ、という気持ちが捨てられないのだ。
……などというおれも四十を過ぎたいい大人のはずなのだが、やはり底辺に近いところを這いつくばるものとして、やはりそう言いたい。おれより若いものがどう思っているかは知らない。だが、おれのような欠陥の人間は「弱くて」、「雑」なのが根底にあって、それは弱みでしかなく、思想するなんて、なんて上から目線なんだろうと思わずにはおられんのだ。
……では経済の全体像はと言えば、だいたい三つの基本的な型の組み合わせとして考えられる。すなわち「互酬性」「再分配」「市場交換」です。この三つの組み合わせとして経済を考えることで、歴史上存在してきた無数の経済のバラエティに人々の目を向けさせた。これが彼が切り拓いた、比較経済史という方法でした。
その意味で言えば、市場交換にすべてを押し込めてしまうような世界はあまりに殺伐としていて、あまりにも虚しい。でも世界はどんどんそっちの方向に向かっていると、ポランニーはずっと憂いていたのだと思います。
なんとかポランニーの憂いは間違っていないと思う。思うのだが、憂いたところでどうしようもない。稼げないものは価値がない。
日本の貧困者があんな風に、もはや一人前の人間ではなくなったかのように力なくぽっきりと折れてしまうのは、日本人の尊厳が、つまるところ「アフォードできること(支払い能力があること)」だからではないか。それは結局、欧州のように、「人間はみな生まれながらにして等しく厳かなものを持っており、それを冒されない権利を持っている」というヒューマニティの形を取ることはなかったのだ。「どんな人間も尊厳を(神から)与えらている」というキリスト教的レトリックは日本人にはわかりづらい。
支払い能力があること、それがすべてだ。それ以外の現実はないのだし、それ以外の現実を実現させる力というものをおれは感じることはできない。しょせんは、逃げ切り世代の上級国民の戯言だ。お花畑だ。
おれは強い酒をあおって、獰猛な肉食獣のような眼をして、くだらない自分の人生の終わらせ方を考える。それだけだ。