クロの社会哲学の本当のねうち〜『大杉栄 伊藤野枝選集』第一巻・クロポトキン研究を読む〜

 もしもなにかの機会に「尊敬する人は?」などと聞かれ答える羽目になったら、「大杉栄」と答えるかもしれない(ちょっと前までは「清水成駿」)。かなり大きな影響を受けているといっていい。大ファンだ。だが、考えてみたらそれもたかだ三年くらい前に『世界の名著42 プルードン・バクーニン・クロポトキン』のまえがきで知ったくらいの話だ。それ以来、『自伝』なんかを買って読んだり、青空文庫で読めるものを読んだりはしているが(まあ、はっきり言って紙の本以外では読んだ気にはならないのだが)、しっかり、きっちり読んだというわけではない。
 で、なぜか横浜中央図書館には黒色戦線社の選集が棚に並んでいるので、片っ端から読むことにした。第一巻はクロポトキン研究だ。大杉はクロポトキンのことを「クロは」、「クロが」と書いていて、なんだかおかしい。だが、内容はおかしくない。ただ、なんというのか、下手すりゃ100年前の本に「もっともだ」と思ってしまうのはおかしくないか。おかしいのは、俺か、世界か。
 しょっぱなの「クロポトキン総序=無政府主義と近代科学=」が興味ぶかかった。

 ダーウィンを本当に知るには、その名著『種の起源』や『人間の由来』を読むよりも、なによりもまず『一博物学者の航海記』をひもとかなければならない。

 そして、クロポトキンについても同様で、本当に知るには自叙伝が重要なんだよって言うわけだ。無政府主義と近代科学というのに、まず人間在りき、なんだぜ。金子ふみ子だって『何が私をこうさせたか』で己の半生を語っている。それで、クロもシベリアの行政官経験で社会のあらゆる層に実務として向き合ったこと、満洲へ地理学的探検を通して人間や自然を観察したこと、さらに、その素地を作った実地的で体験を重んじる教育を受けていたこと、イギリスの科学誌で最新科学に触れていたこと、そこんところについて説明するわけだ。実地で培われて科学が重要なんだと。

 革命家としてのクロの著述。それはもとよりすこぶる重要なものだ。しかし、その本当の重要さは、やはりその科学者としての著述の重要さがわからない間は、本当にわからない。

 と、こう言う。そんでこう続ける。

 かつてぼくは巣鴨の獄中から故幸徳伝次郎にあてて出した手紙の一節にいった。
 『このごろ読書をするのに、はなはだおもしろいことがある。本を読む。バクーニンクロポトキン、ルクリュ、マラテスタ、そのほか、どのアナキストでも、まず巻頭には天文を述べている。つぎに動植物をといている。そして最後に人生社会を論じている。』
 『やがて読書にあきる。眼をあげて外をながめる。まず眼にはいるものは日月星辰、雲のゆきき、キリの青葉、スズメ、トンビ、カラス、さらに下っては、向こうの官舎の屋根。ちょうど今読んだばかりのことをそのまま実地に復習するようなものだ。そしてぼくは、ぼくの自然に対する知識のはなはだ浅いのに、いつもはじいる。これからおおいにこの自然を研究してみようと思う。』

 と、なんというのか、科学っつーもんの、とくにダーウィニズムの影響みたいなものは大きかったのか。が、大杉はこうも言う。

 とにかくクロの無政府主義文書には自然科学をといていることがすこぶる多い。しかしここに注意しておかなければならないのは、それがヨーロッパの多くの自然科学者がやったような、また日本でも丘浅次郎博士や石川千代松博士がやっているような、生物学的社会学ではけっしてなかったのだ。クロは自然科学の事実もしくは原則をそのまま人類社会学の上に適用する、幼稚きわまるそしてまた危険きわまる類推法なぞにはけっしてよらなかった。かれはどこまでも本当の科学者であった。かれが社会科学を論ずる上に自然科学をといたのは、一方には自然科学の帰納的方法をそのまま社会科学の上に適用せんとし、他の一方には、かくして自然科学の傾向との上に一致を求めて、そこにその一大世界観をたてようとしたのであった。

 と。なんかこれ、最近読んだばかりの、ある視点からの北一輝がぶった切られてるにしか思えん。北の、例の実在的有機体国家の進化と、人類の進化というあれを。
 で、丘浅次郎博士というのは誰だろう?

丘は国際補助語にも関心を寄せており、ヴォラピュクを学んだほか、ラテン語などを基にした「Zilengo」(ズィレンゴ)という人工言語を考案していた(1889年頃と推定。ウィキペディアエスペラント版であるVikipedio{ヴィキペディーオ}には、この言語に関する説明がある。なお、この"Zilengo"という言語名は、この言語で「我々の言語」の意である)。その後、ドイツ留学中の1891年にエスペラント(発表は1887年)を知り、(アッサリと宗旨替えして)日本人初のエスペランティストとなった。

丘浅次郎 - Wikipedia

 とか、生物学とかと関係ないところに目が行ったりして。ちなみに、北一輝は『国体論及び〜』冒頭で丘博士の名を挙げてる。

故に著者は或る學者−−例へば丘氏の如き−−對しては固より充分なる尊敬を以てしたりと雖も、大體に於て−−特に穗積氏の如きに對しては−−甚しき侮弄を極めたる虐殺を敢行したり。

 とか言ってて、「社會民主々義を讒誣し、國體論の妄想を傳播しつゝある日本の代表的學者なりとして指名したるは左の諸氏なり。」の処刑リストに丘淺次郎氏『進化論講話』って名前入れてら。まあ、北さんのは複雑だから、ようわからん。
 wikipedia:石川千代松博士もなるほど生物学の人ではあって、大杉の指摘するような書名も見当たりはするが、武侠社の『性科学全集3』を書いているというと、なにやら人生をかけている人なのやもしらん
 まあ、なんというか、話がそれた。
 大杉は、近代の哲学には、実験科学のいちじるしい進歩につれて、二つの潮流があるという。
 一方はその方法がいまだ全真理をとらえてるとは考えてはいないが、やがてはいっさいが科学的方法に方法によってのみ得られると信じている派。
 一方は、科学に非常な注意と尊敬をはらいつつ、科学的方法では十分な満足を感じないやつら、精神、情感については満足できないやつら、バスじゃモロ最後部なやつら(これは嘘)。
 で、これにはもちろん濃淡のグラデーションがあるとはいえ、前者を科学派(サイエンティズム)、もしくは主知派(インテレクチュアリズム)、後者を実際派(プラグマティズム)、もしくは非理知派(アンティ・インテレクチュアリズム)と呼ぶ。でもって、えーと、プラグマティズムのパースからジェームス、シラー、ベルグソンとか名前が出てきて、どちらかっつーと、大杉はこっちよりなんだけど、でも、結局はプラグマティズムも被征服階級の、労働運動の実際とはかけ離れてて、無意識的実際主義としてのサンジカリズムいうもんがある言いよる。勉強たらんからようわからん。しかしそうか、プラグマティズムいうのは、こういうことか。

 この実際主義とは行為の哲学、結果の哲学、利益の哲学である。ある思想の真偽を判断するのに、直ちに理性や論理に走ることなく、まず行為におもむいてみる。すなわち、その思想を実際問題とぶつからせてみる。

 ふーん。まあそれはともかく、科学的方法で形成された無政府主義が、実際主義のサンジカリズムと合致したのはなぜか。それはクロの科学的方法が偏狭なものでないからだ。

『人類社会の各単位に対して最大限の幸福を実現する目的をもって、自由平等博愛の途上における人類の将来の歩武を予定しようとする試み』の科学的方法であったからである。人類の本能や感情や意志や憧憬やを蔑視する、また社会の階級的分類を無視する、いわゆる主知主理派の科学的方法でなかったからである。

 そんでもって、クロの著述を引用して、最後の〆。ここんところがいいんだ。

 クロポトキンの世界観というのは、ざっとまずこんなものだ。だれにでもちょっとはうなづけるほどの、しごく平凡な、またしごく温健なものだ。ただそれが社会観になると、急にだれでもなかなかうなづけない。しごくとっぴな、しごく過激なもののように見えてくる。
 しかしまあ、そんなことはどうでもいい。また、ぼくはかく、ながくクロの世界観を説いてきたものの、実のところ、そんなこけおどしの世界観なぞはどうでもいいんだ。クロ自身にだって、この世界観があって、はじめてその世界観ができたのじゃない。世界観の前に社会観があったのだ。そしてその社会観の前にもまたなにものかがあったんだ。それはクロ自身だ。クロ自身の強い感情だ。クロの世界観や社会観はこの強い感情にもとづいて、それをただ科学的に理屈づけたものだ。クロの社会哲学の本当のねうちはそこにある。

 実のところ、そんなこけおどしの世界観なぞはどうでもいいんだって、「えー!」ってさ。でも、これって、むつかしことわからん俺みたいなの向けに媚びた文とかじゃねえんだよ。

 僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されるとたいがいはいやになる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。
 精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。
この意味から僕は文壇諸君のぼんやりした民本主義人道主義が好きだ。少なくともかわいい。しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。
 社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々いやになる。
 僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。
 思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そしてさらにはまた動機にも自由あれ。

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 これであって、さらには、金子ふみ子のこれだよ。

社会主義は私に、別に何等の新しいものを与えなかった。それはただ、私の今までの境遇から得た私の感情に、その感情の正しいという事の理論を与えてくれただけのことであった。

 いや、なんか、俺はむつかしい理屈はわからんからというのも否定せんが、俺が希求するものがともかくもの自由(……とはいえ、早い話が金銭的な不安からの解放であって、この本で述べられている「機械化とかでいろんなもんの製造してんのに、一方で飢え死にすうようなやつがいるのってどうなん?」みたいな話がまだ残ってる21世紀ってなんだよ? みたいな感じもしたんだけど、またいずれ)だとすると、こうでなくっちゃいけねえぜって、そんな気がするんだよ。まったくよ、そんじゃ。

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自叙伝・日本脱出記 (岩波文庫)

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 まあ、そういうわけで自叙伝おもしろい。金子ふみ子の獄中歌にこんなのがあったっけ。

大杉の自伝を読んで憶ひ出す幼き頃の性のざれ事

http://members3.jcom.home.ne.jp/anarchism/kaneko_fumiko_uta.html

 願はくは、その戯れ事がそれほど悪くないもんであらんことを。