アナキズム・アンソロジー『神もなく主人もなく』2巻を読む

 われわれは「信者」ではありません。われわれはルクリュにもクロポトキンにも、屈服することはありません。われわれは彼らの思想を討論します。それがわれわれの頭脳の中で共感の印象をひろめる時、われわれはそれを承認します。しかし、それがわれわれの中で何一つ感動させないなら、われわれはそれを拒絶します。
エミール・アンリ

 というわけで、ダニエル・ゲラン編のアナキズム・アンソロジー2巻を読んだ。読んだが、なんというか、五虎大将軍がいなくなったあとの蜀じゃないけれども、だんだんとパワーがなくなっていく感がある。大杉栄亡きあとの日本、じゃねえけれども。なんかそんなところがある。それでおれはもとより政治や経済のむずかしいことはわからないし、「共感」や「感動」にしか意識が向かないから、組合がどうの組織がどうのといわれても、あんまり興味が出てこないのである。
 が、しかし、この世には大勢の人間がいて、それなりにまとまったりしながら生きていかない以上、組織というものは避けられない問題であるし、いくらそれ自体が絶対悪だとしても、必要悪じゃないのということになる。そうなると、やはり組合がどうのという話になってしまうし、やはり集団の指導者というものは必要だという話なんかも出てくるのでおもしろくない。そのおもしろくなさのまま進んでいってしまったのが共産主義、具体的にはソヴェート連邦だったりするのだろうが(……その中のエピソードが面白いのどうのとは別で)。
 とはいえ、2巻にはネストル・マフノーの話もあるからなーと思ったんだけど、あんまり量もなくて。

 マフノー軍は、アナキストの軍隊ではない。それは、アナキストたちによって編成されてはいない。幸福と全般的な平等についてのアナキズムの理想は、それがどのようなものであろうと、それがアナキストたちのみによって編制されていようと、軍の努力を通じて達成されることはありえない。
『自由への道』(マフノー派機関紙)

 アナキストの軍隊も、孤立した英雄も、グループも、アナキストの連盟も、労働者と農民のための自由な生活を創りださせない。ただ、労働者たち自身のみが、自覚した努力によって、国家も旦那方もない、彼らの安楽を建設しうるであろう。
(同上)

 うーん、「旦那方」のところは本のタイトルにあわせて「主人」にした方がよかったんじゃねえの。というか、翻訳が少し読みにくかったとかな……。
 でもまあ、マフノーがレーニンと会談したことがあるとか、アメリカを追放されてソ連にいたエマ・ゴールドマンがクロンシュタットの反乱に反乱側として動いたものの結局否定されて、ソ連を見限った話とか、スペインのドゥルーティとか学べるところはあったとしておこう。最後に、編者であるゲランがアナキズムのアクチュアリティについて答えたことでも引用しておくか。アクチュアリティといっても、1970年のことだがな!

 第一に、不正をただすことが求められているからである。豊かであり、独創的でもある思想が、忘却の中に捨てさられることはあるまい。忘却から引きだすことが望まれている。
 第二に、アナキズムは社会再建の原理としてつねに生きていることに、人々が気づいたからである。たしかに今日、世界においてアナキズムはもはや多くのスポークスマンを持ってはいないが、その思想はその信奉者以上に生きのびている。