自殺の伝え方/山が呼んでいる


 おれと女はどこかの地鶏だかなにかをうりにした、いかにもそこらのショッピングモールに入っていそうな和食チェーンで昼飯を食っていた。ふと女が、最近仕入れた話を披露しはじめた。女の友人の妹が自殺したとのことだ。おれは女の友人を誰一人知らない。
 曰く、警察から「妹さんが駅で倒れ、○○病院に搬送されたので至急来ていただけないか?」と連絡がきたのだと。「その病院なら両親の方がすぐに行けるのですが」と言うと、「事情があって、あなたでなくてはならないのだ」などという。駆けつけてみれば、「全身を強く打って」亡くなっていたという。高いビルの屋上から飛び降りたのだった。そして、残されていた遺書には屋上に入れるビルを見つけるまでの経緯から、自分が死んだあとの対処まで事細かに記されていたという。そこに、関係に問題のあった両親ではなく、姉を呼ぶように指示があったのだか。
 おれは妙に感心してしまった。これが警察による一律のマニュアルなのかどうか知らぬが、うまくできているものだな、と。いきなり「あなたの家族が自殺しました」と電話で伝えて呼び出しては、動揺したその家族が事故の一つでも起こしかねない。ことを告げるのは病院でいい。おれはこういうシステマチックな話は嫌いではない。そしてリアルだ。しかし、他に客もいて、地鶏かなにかを食っているのにそういう話はどうかと思うと女には言っておいた。
 ところで、山が呼んでいるような気がする。おれには希死念慮がある。自殺願望未満恋人以上だ。年のはじめだったか、軽装備で冬の富士山をうろついていて確保された外国人の話が話題になっていたが、いくら訓練を積み、フル装備で挑もうとも、死ぬときは死ぬのだろう。山を愛する人間に侮蔑されようとも、いくら諭されようとも、おれは両者の間にそれほどの差を感じないだろう。正直なところだ。生死の一線に向き合い、ときには肉体を欠損させながらも、山へ、山へ行くのだろう? あるいは、無知で軽装備の人間がうっかり迷い込むよりも、よっぽど自覚して死に向かっているように思えてならない。
 じゃあ、おれは自転車、カメラにつづいて登山というむなしい趣味を持つのか? 答えは限りなく否、だ。いくらその装備類、道具、小道具に惹かれようとも、生死をかけた判断を迫られるような場を体感したいと思おうとも(ここで妙な話をすると、死にたいのに生き残るためのすべてを尽くしたいという気はあるのだ)、なによりも高いところが怖い。高所恐怖症だ。これは圧倒的に面白くない。それに、一人で始められるようなものでもないだろう。
 高さという意味では、屋上に入れるビルを探すこともないだろう。少なくとも、それはないな、と思う。それはない。そういう意味で、おれは勝手に山に呼ばれているような気がするが、山のことはまるで知らないままに、山や山の人に勝手な想像をしては、薄汚いスラムで、空でも落ちてきてくれないかと、そんなふうにまた今日も思い……。