なぜぼくは理科ができなかったのだろう?

 引きこもって人生のレールを外したせいかたんなる加齢か病気のせいか投薬のせいかどうかわからぬが、まるで時間の経過も現在点もわかりかねて、かといって途方にくれるわけもなく日々は勝手に過ぎていく。オートマティックなことは悪くない。かといって、このまま放りだされて行くあてのない郵便物のようになって銀河を彷徨うのもさみしいものがある。
 かといって、カレンダーを注視する気にはなれない。締切、支払い、家賃、おれを苦しめる生活というものと直結していてたまったもんじゃない。時計と目を合わせてもマイスリーを飲むタイミングを計るくらいのことでしかない。
 だからおれは、風流にも月を見るようにした。月の満ち欠けに時の流れるのを感じるというのはわるくない。そう思って月の形を意識するようになった。

 しかし、おれははたと気づいたのだ。おれは月の満ち欠けの仕組みを知らない。その変化の秩序を知らない。この世界は『一千一秒物語』でもないから、バーの中でシガレットをふかしているお月さまに直接聞いてみることもできない。だいたい、一晩のうちに月の形は変わるものなのかどうかというところまであやふやだ。そうだ、おれは小学校のころ、理科ができなかったのだ。
 と、思うのだけれども、なぜおれは理科ができなかったのだろう? おれは算数ができなった。致命的にだ。一方で、国語はかなり強かったし、社会もそこそこできた。文系の人間だ。
 それで、おれは算数ができないというのは、人間の向き不向きというか、宿命的なものだと、中学受験のための予備校の授業やテストの結果などからよくわからぬ納得をしていた。おれにはこれを考える回路がないのだ、と。
 だが、だ。同時におれは理科も不出来だった。中学、高校と科目名が細分化されていっても、全般的に無理だった。物理ができぬというのは自分でもなっとくがいった。あれは計算が入ってくる。おれは計算ができない。
 しかし、月の満ち欠けの仕組みはどうだろう? あるいは生物に関わることはどうだろう? 高度なところにいけばもちろん数学が必要になってくるだろう。ただ、小学校で習う月の満ち欠けなんていうものは、たぶんなにか計算式を用いたりはしなかったはずだ。あるいは、生物についてだってそうだろう。まだ数字は関係なかったはずだ。暗記的という意味では社会と同じくらいできてもおかしくはなかったはずだろう。
 実はこれ、小学生の時分から少しは不思議に思っていたことなのだ。そして、今、推論でしかないのだけれども、やはり先の先に算数が、数学が、計算が絡んでいるものというものは、やはり一気通貫して理系というもの、あるいは自然科学というものであって、それに対応する回路を持たぬものは、やはりそれらが絡んでくる前の時点で対応できないのだろう、と、そんな風に思っている。だからおれは自分の脳ですら薬物でうまくコントロールすることができない。まじないの言葉よりはましだけれども。
 月光はおれの役に立たないし、おれは月光の役に立たない。おれは世界の役に立たないし、世界はおれの役に立たない。この地球という遊星が、緻密な計算式であらわされるなにかで構成され、動いているからには。

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