鈴木隆泰『ここにしかない原典最新研究による本当の仏教第2巻』を読む

 

本当の仏教〈第2巻〉―ここにしかない原典最新研究による

本当の仏教〈第2巻〉―ここにしかない原典最新研究による

 

 副題は「殺人鬼や敵対者にお釈迦さまは何を説いたか」。

というわけで、第2巻です。第1巻では「サンスカーラ(=潜在的形成力)」という言葉を知り(ほんとうに知ったとはいえないが)、「滅」とされているのは「コントロール」の意味だ、ということを知った(ほんとうに知ったとはいえないが)わけです。

 ……ですが、無明という根源的身勝手さは抜きがたく私たちの奥底に留まり続け、善いサンスカーラの発動を邪魔してきます。サンスカーラを思い通りに発動させるのは容易ではありません。このような「サンスカーラが思い通りにならないさま」を表すのが「一切のサンスカーラは思い通りにしがたい」であり、漢訳されて〈一切皆苦〉となりました。〈一切皆苦〉とは「なにもかもが皆苦しい」などという意味では全くないのです。

一切皆苦は実質的に諸行無常と同内容のため四法印(ほかに「諸法無我」、「涅槃寂静」)から外され、三宝印とされたりします。ふーむ。

で、釈尊の歩みを追いつつ、話は進みます。祇園精舎を寄進されたりします。けど、考古調査や原典資料などから「祇園精舎にはそもそも鐘はなかったようなのです」とのこと。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の~」は実に日本的であって仏教的ではないとのこと。

そして話は副題にある「殺人鬼」ですかね、その話になる。その前には、我が子が死んで生き返らせるためには、という母親のエピソードがあったりする(有名ですからみなご存知ですよね)。

と、その前に、この本が「ここにしかない原典最新研究」と銘打っていますが、この自信がどこからくるかというと、たとえばこの「殺人鬼」(まあ、アングリマーラなんですけれど)の話に入るまえに、「インド語のこれこれこういう原典には、アングリマーラの前半生が記されていないから、これこれこういうチベット語の経典から話を持ってきます。チベット語訳経典はインド語の原典を忠実に反映していると考えられるからです」みたいな注意書きが入る。無論、「最新」は日々古くなっていくものですが、このあたりの慎重さというか、誠実さというものは信用してもいいのではないかと思うわけです。むろん、同じ原典に同じ語学力で当たってみて、研究者同士で見解の相違が出てくることもあるでしょう。あるいは「信仰」に関わる部分で違いが出てくることもあるでしょう。とはいえ、無学者にとっては、この『本当の仏教』シリーズは、釈尊の歩みを追う形で、非常に読みやすく誤解が少なくていいんじゃないかな、などと思うのですが。

アングリマーラ - Wikipedia

で、殺人鬼といえばこの人ですね。私などはゆびま……指鬘外道という名前が慣れ親しんだものですが、ここではアングリマーラです。と、アングリマーラは「指でできた首飾りを持つ男」という意味なので、アングリマーラが生まれたときからアングリマーラではちょっとおかしい。本名が紹介されていました「サルヴァローカダルシャニーヤ」(一切世間の人々が見えて喜ぶ美男子)だそうです。本書では「舌を噛みそう」ということで漢訳名の「一切世間現」を略して「世間現」と呼んだりしています。親切ですね。

で、このサルヴァローカダルシャニーヤさん、立派なバラモンになるのですが、師匠の奥さんにはめられて(師匠の奥さんがサルヴァローカダルシャニーヤとはめようとして拒否されて、逆に「はめられそうになりましたの」と訴えたわけです)、師匠から「千人殺せ」といわれるわけです。この本のこの部分には記述がありませんが、『歎異抄』の例のやりとりの着想などは(本質的な部分は異なるのでしょうが)、このあたりかと思ったりします。

それでもってサルヴァローカダルシャニーヤさんは忠実にキラーとなって千人、あるいは千人殺したあとに「指を集めろ」と言われたので再度やり直しで千九百九十九人くらい殺します。

そうです、そして最後の一人として狙われたのが釈尊です。ここで釈尊は簡単な神通力をつかったりしつつも、はたから見て簡単にアングリマーラを帰依させます。

いくら追いかけても(神通力を使った移動でも)、アングリマーラ釈尊に追いつけない。そこで釈尊は言う。そこでアングリマーラは「止まれ」、というが、釈尊は歩みつづける。おかしいじゃないか(妄語じゃないのか、と)というと、釈尊はこう言う。

アングリマーラよ、私はすでに止まっているのだよ。どのような時であれ、生けとし生けるもの一切に対する害心を捨て去っているためである。ところがそなたは、生けるものに対する制御がなされていない。それゆえ、私は止まっているが、そなたは止まっていないのだ》

これですぐにアングリマーラは真の師匠に出会えたと帰依するわけです。

これ(引用者注:無明の完全な制御(コントロール)を達成したブッダ)に対してアングリマーラは、当然ながらサンスカーラのコントロールなどできていないため、無常なるサンスカーラに翻弄されるがまま(止まっていない)、〈制御されていない悪しきサンスカーラによって、生けるものに対する害心を持つアングリマーラ〉を形成してしまっていました。これが、釈尊のことばの中の「そなたは、生けるものに対する制御がなされていない。それゆえ、私は止まっているが、そなたは止まっていないのだ」の真意なのです。

そう、「真実語者」である釈尊の短い説法にはこんな意味があったのですね。いやはや。それでもって、いろいろあって、アングリマーラ釈尊の弟子になるのですね。世間は許さないが、王が許してしまったために、処刑するわけにもいかない。

でもって、このアングリマーラの教誡から、著者は二つのことを指摘します。

まず、釈尊が「悪行の報いとして地獄に堕ちて責め苦を受けるという来世観」を「当たり前」に語っていること。これは乞食をするアングリマーラに人々が石や棒を投げつけ、頭を割られ、服も引き裂かれ祇園精舎に戻ってきたとき、釈尊が「汝は何年も、何百年も、何千年もの間、地獄で苦しめられるところであったが、バラモンよ、汝はその行いの報いを、現世において受けているのだ」と言ったことにあります。

また、現世で罰を受けることの贖罪を、釈尊が積極的に認めていることを挙げます。ここから、著者は現代において仏教者が死刑制度に絶対反対しなくてはならないわけではないのではないかと言います。このあたり、どうなんでしょうかね。

それよりも、まあなんというか殺人鬼アングリマーラが比丘アングリマーラに生まれ変わった、というところがポイントかもしれません。これもひとつの輪廻転生というわけです。

仏教もインドで生まれた宗教ですから、この輪廻の観念を当然のように受け継いでいます。これも誤解されやすいのですが、「仏教が輪廻思想を外部から導入し受容した」のでは決してありません。そうではなく、輪廻の観念をエートスとして持っているインドの人々が、仏教という宗教を創始し、営み、伝えてきたのです。ただし、インド一般における輪廻と仏教における輪廻とが全く同じか、といえば、必ずしもそうではありません。

 瞬間瞬間の輪廻、とは禅でも言いますし、どっかで「仏教にとって輪廻は本来的であるが本質的ではない」みたいな言い方もされます。輪廻について、そもそもそういう世界観のなかの人々(あるいは人=釈尊)が思索し、覚ったのだというところはポイントかもしれない。

で、えーと、「比丘の十の疑問に釈尊はなぜ答えなかったのか」の章に行きます。マールンキャープッタという比丘が十の疑問を抱いていました。

  • 世界は永遠か
  • 世界は永遠でないか
  • 世界は有限か
  • 世界は無限か
  • 霊魂(いのち)と肉体は同一か
  • 霊魂(いのち)と肉体は別異か
  • 如来ブッダ)は死後存在するか
  • 如来ブッダ)は死後存在しないか
  • 如来ブッダ)は死後存在しながらも存在しないか
  • 如来ブッダ)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

はい、もう最後あたりになると「めんどくせえやつ」とか思ってしまいます。で、これらについて一切答えません、述べません。ブッダが回答や説明しないことを「無記」というらしいのですが、そういう態度でいるわけです。それでマールンキャープッタは直接釈尊に掛け合ってどうなんじゃ、と問います。ここで釈尊が答えたのが、「毒矢のたとえ」なわけです。

無記 - Wikipedia

しかし著者は、ここでひとつ注意をします。それは、この「毒矢のたとえ」が「仏教は霊魂や死後の世界を考えることは、覚るためには無益だ」というわけではないのだ、ということです。初期仏典には死後の世界について述べている例がいくつもあるのだよ、というわけです。これに対して、「今回お前が紹介した資料は初期仏典の中でも後代の成立だ」という批判があるかもしれないといい、しかし、「結構です。受けて立ちましょう」と著者。このあたりはなにか学術論争めいたところもあって、こっちとしては立ち入りようがないわけです。

ただ、「どうも釈尊は死後について語っていないわけでも、語るなと言ったわけでもないようだ」くらいにとどめておきますかね。しかし、マールンキャープッタの十の疑問、これを読んでいて思い浮かぶのが、いくつもの禅の公案だったりしませんか。だいたい弟子がマールンキャープッタみたいなことを尋ねて、師匠が一喝だのぶん殴るだの「無」と答えるだの、そういう感じ。ああ、禅のそういうところのベースは、原典にあったんだな、とか、勝手に思った次第です。

ちなみに、著者は「マールンキャープッタ的人間」ではなく「死後の世界があると安心できる」や「魂があると安心できる」という人に対しては、死後の世界や霊魂を堂々と説いたらいいと言います。日本の葬式仏教者も、そこんところを仏教の本質やと理解して、後ろめたさなんかなしに念仏あげんかい、と言うわけです(関西弁じゃないですけど)。原典に当たれば当たるほど、現代日本の仏教も肯定されていくべきだというのが、この著者のスタンスなわけです。

で、本書の最後は提婆達多の話になっていくのですが、途中で終わっています。切りが良くない。続きは3巻で! ということです。というのもこの本は『月刊住職』に連載されていたものをまとめたものだからです。でも、この連載を追うために『月刊住職』を購読しようとは……さすがに思いません。おとなしく3巻を待ちましょう。では。

月刊住職 2018 03―寺院住職実務情報誌

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