佐々木閑 宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』を読む

 

ごまかさない仏教: 仏・法・僧から問い直す (新潮選書)

ごまかさない仏教: 仏・法・僧から問い直す (新潮選書)

 

宮崎 三宝といえば、最近ちょっと驚かされた経験がありましてね。浄土真宗の催し物に呼ばれて行ったら、その会の冒頭で、いきなり演壇上の人達から会衆までが一斉に、賛美歌のような節をつけて朗々と次のような三帰依文を唱えるんです。

 ブッダン サラナン ガッチャーミ(私は仏に帰依します)

 ダンマン サラナン ガッチャーミ(私は法に帰依します)

 サンガン サラナン ガッチャーミ(私は僧に帰依します)

 日本の大乗仏教の、しあも浄土教系の集まりでこういう光景を目にするとは! しかもなぜかパーリ語三帰依文なんです。東南アジアの上座説部(テーラワーダ仏教徒がよく唱えているやつ。

対談の冒頭付近でこれである(パーリ語のアルファベット表記は記号の出し方わからんので引用者略)。おれもいくらかは仏教の本をつまみ読みしているので、この「とは!」はいくらかわかる。

浄土真宗といえば、親鸞が行くところまで持っていった、絶対他力の極地の宗派である。開祖が非僧非俗とか言ってるのである。仏(釈迦)に帰依するのか、阿弥陀如来じゃないのか。戒律とかなしに専修念仏じゃないのか(そもそも日本仏教にきちんと「律」は入ってこなかったわけだけど。でも、日蓮には「律国賊」とかディスられてたよな)。僧(=サンガ。この本によれば一人のお坊さんを指すのではなく「四人以上のお坊さんが、独自の規律を守りながら、修行のための集団生活を営む組織」)にも帰依する感じじゃねえよな。

というわけで、『ごまかさない仏教』の射程がなんとなくわかる。中国を経て日本(……の泥沼)に入り込んだ大乗仏教的なものを相手にせず、という具合だ。あくまで釈迦に立ち返ろう、原始仏教に立ち返ろう、パーリ語あたりで書かれた初期経典に立ち返ろう、せいぜい龍樹あたりまで見てみよう、みたいな。まさにタイトルどおりだ。釈迦に立ち返るのだ。


[釈迦で〜す]サンドウィッチマンVS釈迦

それでもって、最先端の仏教論争(最先端になればなるほど過去に向かって研究が進むものなのだなあ)なんかに触れたりしているのである。おれが読んできた仏教本などといえば、鈴木大拙あたりであって、まったく古く、しかも禅と浄土真宗あたりをどうこうという話なのであって、明後日の方向を向いているといっていいかもしれない。

と、ここではっきり言っておくと、おれは親鸞だの盤珪だのが好きなのであって、日本仏教のいい加減さ(といったらなんだが、まあ)を面白く思うものである。公案に対して、公案のアンチョコが出回るあたりのダメさがいい。そこには指鬘外道の凄味はない。とはいえ、親鸞歎異抄で弟子に……って話が逸れた。本に戻ろう。

というわけで、戻ってページを見れば「アングッタラ・ニカーヤ」だの「ウダーナヴァルガ」のスバシ写本だの「アーナンダをアヌルッダ」が窘めるだの、カタカナ語ばかりである。指鬘外道も「アングリマーラ」なのである。

おれは主に九文字以内のカタカナで名付けられた動物に関するなにかに慣れ親しんでいるので、カタカナ自体に抵抗はない。しかし、一つ告白しておくと、おれの世代(と主語を大きくしていいかはわからないが)はどうしても想起してしまうものがある。オウム真理教である。彼らのホーリー・ネームやらなにやらだ。そして、即座に「胡散臭い」センサーが働いてしまう。あるいは、オウム真理教の事件さえなければ、テーラワーダ仏教などもっと普及していたのかもしれないし、若者も「マジ卍」とか言わないで、「マジドゥッカ」とか言って一切皆苦を意識しながら生きていたのかもしれない。

その、オウム真理教のについても触れられている。

宮崎 結局、禅宗を除けば、日本の仏教系新興宗教で、サンガらしきものをつくったのはオウム真理教だけだったという……(笑)

佐々木 本当にそう。皮肉なことです。誤解を恐れずに言えば、オウム真理教がもし麻原のような人物ではなく、もっと謙虚な人をリーダーに持ち、律のような規則を導入して正しく教団を運営することができていたら、日本では独自の、非常に面白い出家集団が生まれた可能性はあったkもしれない。

オウムの事件のさなか、吉本隆明がオウムを「仏教的な解釈もしてみなければ全体像がわからない」的なことをちょっと言っただけで袋叩きにあったのを思い出す。もっとも、その後の「麻原とテレパシーで会話した」(だったかな)とか、事件後、残党に出家しようという若者にそれを勧めたりとかについては、知らん。

佐々木 釈迦の生き方は、苦しみを生み出す世俗の価値観をひっくり返して、正反対の価値観の中で安寧の境涯を手に入れようというものです。したがって当然ながら、仏教の真理というものは、世の流れに逆らう非社会的な視点だということになるわけです。

とはいえ、ここのところは釈迦の時代も現代も変わらない、はずだ。反社というのはちとまずい(指定暴力宗団比叡山延暦寺、とか?)が、非社会というのはそうだろう。だが、出家者、サンガというものが、自らの生産によらず、ただ喜捨のみによって生活していかねばならぬというところが、ちょっと矛盾しているようで面白い。「仕事をしないで、好きなことだけしていたい! だからご飯は、仕事をしている人たちからめぐんでもらおう」という虫のいい話だ。そんでもって、初期の仏教もその喜捨をたよるがゆえに貨幣経済の発達した大都市の近くにしか存在しえなかっただろうと。このあたりは、佐々木閑が本を書いているらしいのでいずれ読もうか。なお、生産はいかんが、金を貸して利息をとるというのはいいらしく、そのあたりはイスラームにもあったような(なお、サンガにおいて僧侶個人の資産は認められないが、集団としてならいいらしい)。

しかし、そうなると、この本では触れられてもいないが、山伏というか、山岳修行僧なんていうのは、ある意味で苦行をしており、ある意味でサンガを作らず、なんというか、釈迦のダンマには反しているぜ、なんて見方もあるのかわからん。どっかしらで中国あたりの仙人の影響なんか入ったのかもしらん。

そしてなんだ、現代において「虫のいい話」を実行しているのは、オウムの残党などではなく、たとえばphaさん一派(?)みたいな、あんな感じなのかもしれない。そこにダンマがあるのかといえばなさそうだし、律があるのかといえばあるのかもしれないし、ようわからんというのがおっさんの本音だが、ある種のサンガのように思えるところはある。

まあともかくとして、一見して脆そうなサンガの、喜捨のシステムは二千五百年続いたと。上座部仏教はサスティナブルであると。そう言われると、すげえな、という気にはなる。パソコン屋(マハーポーシャ)や、病院や葬儀屋とつるんだ読経賃も駐車場経営もなしで続いてきたんだ。空有り、だ。つーか真面目な話、国家仏教でもなく、あるいは教団なんかいらんといった立場でもなく続いてきたもんはないのかな。一遍上人だって、跡継ぎが時宗になったら別物か、という。

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そんでもって、そのサスティナビリティはどっから来たんだろう? 宮崎も佐々木も「自殺する人を救う」、「病院みたいなもの」みたいな言い方をしている。世間の流れに乗れない人間を救う、「心の病院」だと。おれも生きるのが下手だから精神疾患の地獄に陥り、ひたすら酒を飲んでいる(今、ピンク色のモエ・エ・シャンドンを飲みながらこれを書いています。つーか、在家のための五戒の五番目に飲酒すんなってあるじゃん。しかし、人間にとっての酒って大昔からあってすげえな)一方で、どうしても仏法僧に惹かれてしまうところがあるのだろうか。

と、そこんところで、やっぱり釈迦です、ということになるのかわからん。おれには妙好人のような素朴な信仰からもかけ離れているから阿弥陀如来大日如来一神教の神のように信仰することもできないし、教義に目を向けて「十二支縁起」だの「四諦八正道」だの「六因五果四縁説」とか、数字が出てくると放り投げたくなるし(算数のできない子なので)……。

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つーか、こんなん覚えなきゃならんの? 覚えるというか、体得(?)せにゃならんの? いや、これ説一切有部の「倶舎論」に出てくるとかで、「唯識三年、倶舎八年」といって、八年かかるらしいのだが。

というわけで、やっぱり遠目から薄目で仏教を眺めることにしよう。そんでもって、適当に本とか読みながら「瞬間瞬間の輪廻転生」とか秋月龍みんも言ってたな、とか(とか言ってこの本の二人が激怒してもしらん)思ったりしよう、とか。

そんでもって、一冊本読んで、これだけは覚えておこうとかね。釈迦が説いた教法の根本はこの四つ、この四つだけ覚えて帰ってね、と。

佐々木 それは「縁起」「一切皆苦」「諸法無我」「諸行無常」の四つだと思います。この四つの概念は相互に深く絡まり合いながら、仏教の教えの中心を形成しています。

以上!

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誤解された仏教 (講談社学術文庫)

誤解された仏教 (講談社学術文庫)

 

『誤解された仏教』秋月龍みん(みんは王へんに民) - 関内関外日記(跡地)

 

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肉食妻帯考 日本仏教の発生

……「ごまかさない仏教」って、日本仏教が念頭にあると、このあたりの話かな? とか思っちゃうよね。

 

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このあたりまで来ると、おれですら「そうとう釈迦の教えから離れてるな」という気はする。

 

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このあたり、また読み返したりしたりね。