新聞紙の薄っぺらさよ-『異教の隣人』を読む

 

異教の隣人

異教の隣人

 

『不干斎ハビアン』の著者である釈徹宗が、日本に住むいろいろの異教徒と対話するのだから、これは面白いに違いないと思った。

が、実際のところは新聞の連載であって、記事を書くのは新聞記者であって、釈徹宗とどこかの大学教授だかは同行して一言二言言葉を交わすさまが描かれているだけであって、なんとも歯ごたえのない本であった。

そもそも、異教徒同士の対話というものは、それだけで一翻つく、おもしろいものなのだ。それはもう昔々からのことであって、ミリンダ王の問いくらい古くからの話なはずなのだ。

ミリンダ王の問い - Wikipedia

それがどうだろうか、よくもまあここまで退屈にさせてくれるものだ。「日本に溶け込もうとしていますね」、「信仰には場が大切ですね」、「宗教教育をする機関がないのに困っています」、「食べ物の戒律を守るのが大変です」……そんな話に終始してしまっている。

だいたいにして、各記事の締めがおもしろくない。何人かの記者によるものだが、中学生か高校生のレポートのようなもの、小論文のようなものかという話である。

「……改めて気づいた。」

「……理由に触れたように思えた。」

「……信仰の力強さを見た気がした。」

「……信仰の場の役割を強く感じた。」

「……勇気づけられ、温かい気持ちになる。」

「……何か大切なお土産をもらったような気持ちで帰路についた。」

「……つながる力について改めて考えさせられた。」

「……日本人でもある記者にもどこか懐かしく、心地よく感じられた。」

「……より生きやすい社会を目指して行動する彼女たちの瞳は輝いてみえた。」

……ええ、もう、うんざりだ。つまらん、おまえらの話はつまらん。これに尽きる。奇をてらえとは言わぬが、もうちょっとコーナーを攻めてもいいんじゃないのか。

「……美しい声のある人間には、ある種の精神の欠陥がある。」とか、「……帰路、歩きながら飲んだストロングゼロは、普段とは違う味がした。」とか、「彼らは信仰から受け取る、私はアルコールからカロリーを受け取る。」とか、「死ぬより生きているほうがましだということを証明する方法はない。」とか、「あらゆる生存は、軽薄への譲歩だ。」とか、たまにはそんなことを書いてみてはどうか。

それに釈徹宗さんよ、ひょっとしたら、いろんな宗教者と面白い対話をしたのかもしれないが、ちょっと出し惜しみしてねえか。もっとアクセル踏んでくれよ、そう思った。日本テーラワーダ仏教協会に乗り込んで、アルボムッレ・スマナサーラ相手に日本の大乗仏教の極北の冷気を当ててみろよ、とか。

……て、いや、そういう本じゃないですから、と言われればそうだろう。おれが、入る店を間違った。そう考えてみれば、台湾仏教やベトナム仏教といった、あまり知られていないところを紹介してくれているし、なかなかに興味深い。もちろん、毎日新聞大阪本社という出所からして、日本全国というわけではなく、関西に限られる(例外、ワラビスタン)のも仕方ない。それに、なんといっても一時間もかからず、さらさらと読めてしまうので、「時間を損したなあ」という気にもあまりならない。少しはなる。そんなところ。以上。

<°)))彡<°)))彡<°)))彡<°)))彡

<°)))彡<°)))彡

<°)))彡

goldhead.hatenablog.com

ハビアンは安土桃山時代から江戸初期の人。一度キリスト教に帰依するも棄教し、批判の側にまわる。比較宗教学をしていたとも言えるだろうか。この本は面白かった。

 

goldhead.hatenablog.com

まあ、対話言うたら、一冊まるまるくらいじゃなきゃいかんか。