釈徹宗『不干斎ハビアン 神も仏も棄てた宗教者』を読むのこと

不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者 (新潮選書)

不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者 (新潮選書)

 どこで不干斎ハビアンを知ったか? 彼を現代に紹介したという山本七平の本、ではない。山本七平はいくらか読んだが、覚えがない。つい最近知ったような気がする。まあ、そんなことはどうでもよろしい。おれはこの不干斎ハビアンという人物が興味深く思え、この本を手にとったのだ。
wikipedia:ハビアン

ハビアン[1](Fucan Fabian、1565年(永禄8年) - 1621年(元和7年1月))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての日本人のイエズス会修道士(イルマン)。本名不詳。後に棄教しキリスト教弾圧に協力した。またキリスト教と他の宗教を比較した著作を残した。

 元は禅宗におったが、キリシタンとなり、世界初ともいえる比較宗教論(『妙貞問答』)を書き記す。空海が『三教指帰』で儒教道教をやっつけて仏教こそ、とやったように、神道、仏教各宗派、儒教道教をやっつけた本である(らしい)。が、そこにはもちろん、キリシタンとしての教えが記されており、というわけだ。そして、ハビアンはバックボーンに禅宗があり、さらには仏教者とのリアルなバトルを繰り返してきた説教力がある。才気煥発にして、ぞれぞれの宗教・宗派についてそれなりの知識があり、弱点をも知っている。こいつは日本の既存宗教にとってはやっかいな代物であり、キリシタンの大きな武器になった。
 が、Wikipediaにあるように「後に棄教」するのだ。わりと晩年のことである。そして『破堤宇子』(デウスを破る)というキリシタン攻撃の書を記す。今度は『妙貞問答』で見せた手腕をキリスト教に対して振るうのである。これは伴天連にとって大きな脅威となる。返す刀で、ではないが、キリシタンの内部を知っている、キリスト教の弱みを知っているだけに、ということだ。「地獄のペスト」と忌避したのも頷ける。ハビアンは『破堤宇子』を書いた翌年に死んでいる。
 日本人とキリスト教。おれとキリスト教。日本にはキリスト教がついぞ根付いていない。日本という泥沼(遠藤周作がそう述べたらしい)に、キリスト教国は成り立たなかった。日本だけというわけじゃないだろうが、ともかくこの国への布教は……おそらく失敗したといっていいだろう。もちろん、個々人で見れば立派なキリスト教者もいるのだろうが、とりあえず日本であれが一番多い日はクリスマスの日とSOXも言っている。
 その事実に、ちょっとした面白みと、ざまあみやがれ、という気持ちを抱いてしまうのはなぜだろうか。おれのような偏狭な人間の性質だろうか。たしかに原爆を落とされて焦土にはなったが、日本人はお前ら毛唐の宗教に塗りつぶされなかったんだぜ、という。言い過ぎか。まあいい。原爆はともかく(日本が白人の国だったら原爆は落とされたのだろうか?)、キリスト教国になりはてて、有色人種などサルとしか思っていないような毛唐連中の植民地にならずにすんだご先祖様にマジ感謝、という気にはなるのだ。鎖国ばんざい。言い過ぎか。いずれにせよ、よくわからない多神教だか無神教だかわからぬ日本は嫌いじゃない。むろん、おれがこの国にたまたま生まれ育っただけに過ぎないが。

 しばしば比較宗教文化論では、日本人の宗教性を「儀礼好きの戒律嫌い」と表現する。この場合の「(宗教)儀礼」は、宗教儀式から聖職者の衣服や建築様式まで幅広い領域を指す。

 しばしば指摘されるように、日本宗教文化はシンクレティズム傾向が強い。日本宗教文化は、すべてが中空化・同一化へと還元してゆき境界が不明瞭になっていく、というベクトルをもつとされる。

 まあ、おれの歪曲した認識などこんなもんである。とはいえ、たとえば同じ東北アジアの韓国でキリスト教がそれなりに馴染んでいるのに、日本は違うのか。このあたりはなにか気になるところではある。そんな中にあって、ファースト・インパクトを受けた時代のハビアンのごとき人物は、やはり気になるところなのである。
 ハビアンが受けたインパクトとはなんだったのだろうか。ひとつには「絶対」というものだろう。唯一の神(「神」という訳語を使ってしまったことはキリスト教の失策じゃないのかと本書では指摘されているが)というもの。相対の相対の空のあるところに向かう仏教とは大違いだ。そして、人間というものが他の生き物とは別のものであるという位置づけ。草木まで成仏するんだぜ、というある種の平等主義を持つ場合もある仏教との違い。そして、それにもつながるが後生についての認識、あたりだろうか。ハビアンはいずれかによって、キリシタンとなる。釈迦も諸仏も人間に過ぎない。真の救いは唯一の神、カシコイモノ(ギュツラフ訳聖書……本書には出てこない)にのみある。伴天連が持ってきた科学知識とともに夢中になったことだろう。まったく新しい世界。

妙秀「では、そのデウスさまとはどのような存在なのでしょうか?」
幽貞「スヒツアル・ススタンシア(霊的実体)と申して、色も形もありません」
妙秀「では、見えないし、触れないのですね」
幽貞「見えないし、触れないと言っても、存在しないとは言えません。なにしろ無量・無辺、永遠の存在ですから。それはサビエンチイシモ(最高智)でありミカリカラルヂイシモ(最高愛)であり、限りなき慈悲の根源シユスチイシモ(最高義)なのです。オムニホテンテ(全能)なのです。

 ……日本語で(以下略)。まあともかく『妙貞問答』は、ともすれば現代日本人がキリスト教にいじわるな心をもって問いかける質問を投げかけ、それに答えていく。「たかがリンゴ食ったのを許さないような偏狭な奴に全人類を救う慈悲があんの?」、「全知全能のくせに極東まで教えが伝わるのに何年かかってんのよ?」などなど。まあ、人間の考えること、数百年じゃあ変わりない。もちろん、定番の攻撃には定番の防御があり、反撃がある。『カテキズモ』がある。ハビアンはディベートに強かった。
 と、ここでというかなんというか、ここにハビアンがいる。新しい知識を取り入れ、理論武装し、リアルな仏僧とマジなバトルを繰り広げて……、あまり本人の強烈な宗教心が見えてこない、感じられない。これによって、どうもキリスト教者には評判がよろしくない。いや、最後に棄教(単に組織の脱会という見方もあるらしいが、やはり棄教だろうということらしい)してんだから当たり前だが、まあともかく低く見積もられている、ということだ。それはそうとも言えるような気がする。逆に言えば、晩年に至った境地においても仏教の信心が強烈にある、というわけでもなさそうだ。
 では、高く見積もるとどうなるか。ハビアンを近代的自由人とする見方だ。あらゆる宗教を相対的に見て、どこにも属さず、自ら一個人として、自由人としての境地に至った、というところ。宗教すら「手段」にすぎなかった。そこに深い知識人を見出す、というのである。
 さて、どうだろうか。おれにはよくわからない。よくわからないところに、本書の、釈徹宗の解釈というものも提出される。それは、現代社会に見られる「宗教の個人化」、「個人の宗教化」というものに通じてるんじゃねえの、というところだ。アメリカ人の宗教学者ロバート・ベラーとかいう人の言う「宗教的個人主義」、「個人宗教」という、日本人に限らない傾向に。自我というものを確保したまま知的好奇心のつまみ食いとしていろいろの宗教に接する。そんな態度。……って、おこがましくも、適当に仏教関連の本を読み漁ってるおれなんか、まさにそうじゃねえの。そうなの。そういうことなの、と。なんとなくこのあたりには得心がいった。そして、なんとも早い段階でそこまで行ったとしたら、ハビアンという人物は早すぎたタイムリーパーみたいなものじゃないの。なるほど、「世界初の本格的比較宗教論者」という肩書きもありかもしれない。いやはや。
 あとなんだろう、日本教(という言葉を使うと使用者やその思想が限定されちゃうのかもしらんが)の重要要素である、柳田國男なんかの先祖崇拝についてだとか、「あるがままであること」を第一の態度としがちな面(明恵の「阿留辺畿夜宇和」とか、出家というライフスタイルがいまいち流行らないところとか)とか、そのあたりかな。そうか、鈴木正三なんかがこの文脈で出てくるのか。たしかに生活即悟りだ。
 でも、まだまだハビアン関係の本もありそうだし、元琵琶法師のロレンソ了斎だの養方軒パウロだの、

 日本人最初のヨーロッパ留学生でありながら、帰国後には捕縛・拷問されて棄教、日本のキリシタンの現状に苦悩し、宣教師に向かって「これ以上、あなたたちの理想と夢を押しつけないでくれ」とラテン語で叫んだトマス荒木。

 など、キリシタン関係も気になるのであった。おしまい。

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