自由であること、自動であること

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夜、雨が降るとは知らなかった。テレビの天気予報も見ないが、携帯端末で天気を調べもしない。朝は自転車、帰りは徒歩。

とぼとぼ徒歩とぼとぼ、背中のTIMBUK2バックパックには900mlの泡盛と半額シール付き酢豚1パック。さす傘は、たとえ晴天でもバッグに押し込んである重い折りたたみ傘。

ずったら、ずったら、おれは小雨の中を歩いた。なにを思うでもなく、ただ単に歩いた。歩いていて思った。

「これは自動的に手足が動いている」、と。

おれは自動的に安アパートへの帰路を歩いていた。そこにおれの確固たる意思、いや、いささかの意思もなかった。足が進む方に足を出し、手はそうであるように傘を持っていた。

「これは自動ではないか」、と。

おれはそう思った。

おれが究極的に求める言葉は「自由だ」。リバティでもフリーダムでもいい。ともかく「自由」を求める。

一方で、おれが望ましいと思えることに、「自動」がある。おれが毎晩決まりきったものを作って食べるのも、それが自動的だからだ。なにも考えなくてよい。決まりきったことで食糧の摂取が済めば、それに越したことはない。昔の子供向けSFのように、錠剤ひとつで晩飯が済むならそれに越したことはない。

しかし、「自動」には束縛の要素がある。それ以外、許されていないという要素。これは「自由」に反する。

いや、反するのだろうか。

おれは小雨の降る路地をずったらずったら歩きながら考えた。そして、自由ゆえの自動、自動ゆえの自由があるのではないかと思い立った。

おれが自動であるとき、おれの意思やはからいといったものとは無縁に、おれの身体は動く、おれは動く。そこにおれの意思やはからいといった制限は無い。おれは自由だろう。

おれが自由であるとき、そこにおれの意思やはからいといったものがない。そういった制限と無縁のところで、おれの身体は自動に動く。おれは自動だろう。

おれの意思やはからいといったものが無いとき、すなわちおれの我が無いとき、おれははじめて自動的になれるのであろう。おれがなんの意思やはからいもなく動けているとき、おれは自由なのであろう。

自由であること、自動であること、これは軌を一にするといっていい。

曹洞宗だかどこだかの仏教の宗派は、日常の所作をがんじがらめといっていいほどに定めているとかいう話だったかと思う。自らを縛りつけることが修行なのだろうか。逆であろう。日常の所作をオートマチックにすることによって、余計な意思やはからいを取り除いて生きることができる。そうではないのだろうか。

なんとか宗の考え方と、おれが今夜、泡盛を背負って気づいたことがぜんぜん違ってもべつに構わない。ただ、自由の中にあって自動的に行われることにおおきな間違いといったものはないのだろし、人が自動的に自由にふるまうところにもおおきな間違いといったものもないのだろう。

おれはそのように感じた。

おれが自動的であるとき、おれは自由だ。

おれが自由であるとき、おれは自動的だ。

諸行は無常であって、おれがなにか為すことは、かりそめだ。

諸法は無我であって、なにかを為すおれは、かりそめだ。

四六時中その境地にあって、おれの行いが常ならぬものであり、おれの為すべきことにおれという我というものがないということ。この心持ち、あるいは心無しのままに生きることができたならば、そこには苦しみから解放された自由というものがあるのだろう。

おれは、小雨のなかずったらずったら歩きながら、そのような想念を遊ばせていた。