キム・ギドク『The NET 網に囚われた男』を観る

 

主人公は北朝鮮の漁師。妻と幼い娘。小さなボートだけが稼ぎのもと。いつものように漁に出る。川に出る。すると、突然のエンジン故障。為す術なく流されていく。その先は韓国との境界線。緊迫する国境警備隊。必死に故障をアピールする主人公。しかし、結局、韓国側に漂着する。脱北者、漂流者、あるいはスパイ、北からの入ってきた人間を取り扱う部署に回される。執拗にスパイ容疑をかける捜査官、ただ彼は家族のもとに帰りたいだけだと考える捜査官、独裁国家からの解放こそが正義と信じる上官……。

キム・ギドクの映画である。とはいえ、暴力シーンは少なめだ。それよりも、もっと重い空気に包まれている。それは二つの国家の間で為す術なく流され、それぞれの国家の「網」に絡め取られてしまった人間のやるせなさだ。思想も豊かさも違う両国。韓国側は都会であるソウルを無理矢理にでも主人公に見せようとする。主人公はかたくなに目を閉ざす。自分のあるべき場所、家族のもとに戻りたい一心で。そして、かれをそこへ返そうとしないのは韓国もそうだし、北朝鮮もそうだ。観客であるわれわれはそれを知っているし、主人公もわかっている。だが、どうにもならない。

むごい話だ。だが、どんな独裁国にだって主人公のようにつつましく暮らし、家庭をもつ庶民、市民、大衆……なんというのが正しいのかわからぬが、生きている人はいるだろう。だが、あらゆる自由も豊かさもない国を放置して、自由のない中で大勢の人々が苦しんでいるのを放置していいわけでもあるまい。かといって、たとえば武力による解放となった場合、まず最初に死んでいく可能性があるのは弱い人々だろう。そして、自分の国が自由で豊かだというのも、また一つの幻想かもしれないのだ。

たとえば、日本人であるおれ、日本という国について、「北朝鮮よりましだ」とは思っている。これは心の底から思う。その一方で、そう考える根拠についてどこか思考を放棄しているところはないだろうかとも思う。現に、おれは日本という自由な社会の中で溺れて死にそうだ。自由の中を泳ぐにはそれなりの才能が必要だ。おれにはそれがない。そういう人間にとっては、飢えない程度にパンとスープが支給されることが決まっているような、旧共産圏の方が合っているんじゃないかと思うことすらある。いや、旧共産圏(や、もはや何国家かわからぬ北朝鮮)は結局みなが飢える可能性が高いのだろうが。

まあそれはともかく、ええと、なんだっけ、まあ個人という最小単位、家族という単位、そして国家という単位。それぞれが他のそれぞれとつながり……、その網はやがて本来人間を救うためのものであったかもしれないのに、逆にがんじがらめになってしまう。そこに人間の不幸がある。渡り鳥の群れのように、シマウマかなにかの群れのように、あるべきようにあるようにはならない。自由と安心はときに反目する。個人がその内なるものによって家族に反するときもあるし、家族が国家社会に反するときもある。いつの日か、この地球という星の上に生きる、人間いう生き物が、自由と調和してだれもが飢えず殺さず殺されずの世界をつくることができるのかどうか、おれには正直わからない。

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