本当の仏教 第1巻―ここにしかない原典最新研究による お釈迦さまはなぜ出家し、いかに覚ったか
- 作者: 鈴木隆泰
- 出版社/メーカー: 興山舎
- 発売日: 2014/04
- メディア: 単行本
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いろいろな宗教と同じく、仏教にもいろいろな宗派があり、その宗派の開祖というものは往々にして「私は○○宗を立ち上げたわけではない。釈尊に立ち返っただけだ」ということを言う(ような気がする)。宗派として残らなかったにせよ、盤珪禅師も「強いて言えば仏心宗」(禅宗の意味で言う「仏心宗」とはべつもの)みたいなこと言ってたような気がする。
まあともかく、やはりいろいろな宗教と同じく、原初に立ち返ろうという力は働いてくるもののように思える。なにか悪い意味合いがついてしまった言葉ではあるが原理主義とでも言おうか。
そしてその原理主義、原初そのものに近ければ近いほど(古ければ古いほど)正しいかというとそうでもなくて、現代の、最新の研究によって、より顕になる、というところがある。佐々木閑が鈴木大拙の『大乗仏教概論』を訳したら、サンスクリット語の解釈は八割間違いで、内容も現代の大乗仏教の研究からしたらお粗末でデタラメだ、というようなことを書いていたが(フォローもしていたけど)、もちろん鈴木大拙の時代に手に入った資料にも制約があったろうし、語学的な面での研究も進んでいなかったのかもしれない。
というわけで、釈尊の時代に立ち返って、その基本的な考えを知ろうとするならば、最新なのがいいのだ、たぶん。文献の研究なども積み重なり、「この部分はこいつが訳すときに勝手付け加えたんじゃねえのか」とか、そういうところもあるだろう。そこで、原典にあたれる言語力を有する人が、最新の解釈でそれにあたれば、そいつは割と原初を今に伝えてくれるんじゃねえかという気はする。
とはいえ、原理主義ではない。著者のスタンスはそうだ。『葬式仏教正当論』なんて本も書いている。中国を経て日本に伝わった仏教それぞれの宗派にもそれなりの意義がある。というか、釈尊からしっかり繋がっていると言っている。
で、とりあえず、というか、ともかく王子シッダールタの誕生から、ブッダになるところまでを時系列的に追っていっている。おれなどは頭にチラチラと手塚治虫の『ブッダ』の絵が思い浮かんでしまう。
サンスカーラとは
というのは置いておいて、本書で重要な語句として取り扱われている「サンスカーラ」についてメモしておこう。
以下の〈自分〉は「自我意識の対象となっている自分」、〈自己〉は「本当の自分」。ちなみに、仏教では本来人間を「アートマンならざるもの」としているのであって、「アートマンは存在しない」と主張していないそうです。
……六年間の修行を通して彼の到達した境地は〈自分〉と〈自己〉との離反という出発点の確認・確信にとどまらず、〈自分〉を作り出してしまうもの(〈自分〉と〈自己〉とを離反させてしまうもの)は何か、そして、その根本的原因は何か、の発見でした。これらのうち、、〈自己〉と離反した〈自分〉を作り出してしまうもの、それが〈サンスカーラ〉なのです。
この(悪しき)サンスカーラが老病死などの真実から目を逸らさせ、苦しみの原因になる。
サンスカーラという単語は、語源的には「完全に作り上げること、全く作り上げること」を意味しています。それは、不完全なものを完全にする」という点で、「完成」という意味を持ち、また、「もともとないのに一から全く作り上げてしまう」という点で「虚構、潜在的形成力・形成作用」の意味を持つことになります。インドでは前者の意味で用いられることが一般的ですが、同じインドでも、こと仏教においては、後者の意味が重要となります。
で、「いきなりサンスカーラとか言われても、聞いたことねえよ」という人も多いだろうし、おれもそうなのだけれど、これはいままでこう訳されていた部分のことなのだ。
「サンスカーラなんて知らなかった」と仰るかもしれませんが、実は「一切のサンスカーラは一定していない」の漢訳語こそが〈諸行無常〉であり、「一切のサンスカーラは思い通りにならない」の漢語訳が〈一切皆苦〉なのです。
そうだ、われわれは漢語訳に引きずられていて、本来の意味を切り捨てたり、誤解したり、夾雑物を付け加えたりしていたかもしれないのだ。
というわけで、サンスカーラを十二支縁起に入れるとこうなる。
(1)衆生には無明(根源的無知・盲目的身勝手さ・どうしようもなさ)がある。
(2)無明によって悪しきサンスカーラ(潜在的形成力・形成作用が生じる。
(3)サンスカーラによって識(認識作用)が生じる
……。
十二支縁起はお調べください。ちなみに、著者はこのようにも述べている。
かつて、法然上人が僧侶の妻帯について、「妻帯した方が念仏しやすい者は妻帯すればよい」と説いたのも、同様の趣旨に基づくものでありましょう。人によって「何が正しい道か」は異なります。その人を涅槃に導く道が、その人にとっての正しい道(八正道)であり、〈中道〉なのです。そして〈自分〉がサンスカーラによって形成されるものであるため、人による違い(個人差)は「サンスカーラの出方の違い」に他ならないことになります。〈諸行無常〉である以上、サンスカーラの出方が異なることは、仏教の大前提なのです。したがって、人ごとの違い(サンスカーラの違い)を考慮せず、全員一律に何らかの修行法・修行スタイルを適用しようとする態度は、仏教の根幹である〈諸行無常〉や〈中道〉に反するものとなってしまうでしょう。私たちはこのような過ちを犯さないよう、十分に注意しなくてはなりません。
話は「中道」あたりに飛んでいるが、どうもそういう見方のようである。たとえば、釈尊は苦行を否定したけど、真言密教なんかじゃ苦行としか思えないことをやっている(千日回峰行とか)。でも、ある人(なんかすごい人)にとってはそれが中道なんだ、と。
まあともかく「行」は「サンスカーラ」と。
滅とは
あと、もう一つ漢語訳に引っ張られている言葉が出てきた。これも重要というか、「そういうものなのか」と思ったのでメモ。
それは「滅」。
原典を引いた後にこう述べられている。
「覚りの境地である涅槃とは滅である」ということです。ここから「涅槃とは身を灰に帰し心を滅することだ」と、仏教を虚無主義・敗北主義的に解釈してしまう人も現れたとも伝えられています。しかし、原文からの引用を見れば明らかなように、滅せられるのは〈渇愛〉(そしてその根底にある〈無明〉)であって、「身を灰に帰し心を滅する」などというものでは決してありません。仏教の虚無主義・敗北主義的理解が誤りであることは言うまでもないのです。それでもなお、そのような誤った解釈が完全に払拭されないのは、取りも直さず「滅」という漢字表記が持っている意味と、そこから醸し出される印象・ニュアンスによるものと考えられます。
とのこと。で、「滅」に訳された本来の言葉はなんなのか。
ところで、「滅」と漢訳されたことばの言語は「ニローダ」といいます。辞典でも確認したように「滅」という漢字にはたしかに「消える、滅びる」というニュアンスが強く表れていますが、原語のニローダはそうではないのです。
インド語(サンスクリット、パーリ語)のニローダは「制御する、抑制する、コントロールする」を意味することばであって、「消滅する」を第一義とはしていません。漢字の「滅」とは大きく異なるのです。もちろん、コントロールし続けた結果として最終的に消滅させてしまう可能性まで否定するものではありませんが、ニローダが漢字の「滅」とは異なり、「消滅する」を第一義としていないという点は、是非とも確認しておいていただきたいのです。
その証拠に、ブッダとなった釈尊にも無明(悪魔?)が語りかけてくるのも、「消滅させた」わけではない証拠だということになるのだとか。
というわけで、あまり物覚えがよくないけれど、「行」とされているものは、「サンスカーラ」(潜在的形成力)で、「滅」と漢訳されているものは「コントロール」だ、と記しておこう。他のなにかを読むときに役に立つかもしれない。以上。
と、ところでこの著者の鈴木隆泰さんは東大工学部・文学部卒で東大で文学博士。くわしい経歴は知らないけれど、理系の高等教育を受けている。このあたりは佐々木閑さんも同じで、なにかこうとても頭のいい人には文系も理系もないのか、それとも仏教に行ってしまう人には両方備わっていたほうがいいのかと思ってしまう。どうでもいいことだけれど。
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