マンダラと量子宇宙だの、つき合わせてみても意味がない 『真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話』を読む

 

真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話 (幻冬舎新書)

真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話 (幻冬舎新書)

 

 仏教学者(にして京都大学工学部も卒業しているから理系でもあるのだろう、無学なおれにはわからん大雑把な認識)佐々木閑と、米国カリフォルニア工科大学理論物理学研究所所長である大栗博司との対談本。まず第一部で佐々木が聞き手にまわり大栗が話し、第二部で立場を入れ替え、第三部で対談。最後に「特別講義」としてそれぞれが自分の専門分野の専門的なことを書く、という構成。なかなかおもしろい。

というか、知的な営みにおいて対談やら問答というものは、わりと大切なことなのではないかと思う。対談者にとって得るものがあり、また、疑問多き第三者である無知なる自分にとって、その問いを待っていた、答えを待っていた、ということが往々にしてあるからだ。ある賢者の語る直接の文章は尊い。ある賢者の文章にしなかったこと、行動を書き記した随聞記もありがたい。その上で、その賢者なりなんなりについて、己が見解をもってぶつけ合い、教え合う対談やら問答というのは面白い、ということである。ただし、格闘技やプロレスと同じく、マッチメークは重要である。分野が違いすぎてまったく接点がなかったり、ある程度同じ土俵に立っていても、あまりにもテーマについての知識や理解度が違いすぎたり、あるいは両者の信仰の域に入ってしまったりすると、成り立たなくなることもある。

しかし、この本ではうまい具合に噛み合っているように思えた。

 また、私はこの対話をするにあたって佐々木先生の『科学するブッダ』(角川ソフィア文庫)を拝読し、大いに安心したことがひとつあります。その中に、こんなことが書かれていたからです。

 私は本書で、科学と仏教の関係を論じるが、両者の個々の要素の対応に関しては一切無視した。唯識脳科学だの、マンダラと量子宇宙だの、つき合わせてみても意味がない。

この「私」は大栗博司。おれは『科学するブッダ』を読んでいないけれど、たしかに仏教の話を読んでいると現代の科学だの物理学だのに「似ているな」と思うことはある。あ、言うまでもないけど、おれは仏教も科学もわかっていないから。そんなおれがそう思うくらいなので、なかには「釈迦は量子論を知っていた」とか言う人がいてもおかしくない。ただ、佐々木閑はそれを「そんなことはありえません」とバッサリ。そして大栗博司は安心する。世界へのアプローチが科学と仏教では違うのだから。

というわけで、大栗先生の「そもそも科学による自然界を知るための方法」という話からはじまり、勉強になるのである。そして話は進んでいき、「ホーキング放射」だの「超弦理論」だのにちょっと触れるのである。そこまでいくと、正直、ようわからん。

そして、第二部は佐々木先生のお話。

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はい、アビダルマによる「この世」の構成要素(七十五法)。はい、クラクラします。

……これが、世界をつくっている実在要素です。物理学で言えば、素粒子の一覧表のようなものでしょうか。

 これを見ると、どこにも「我」というものは存在しません。ここにある七十五の要素がさまざまな条件下で集合離散する中で生じるあるひとつの集合体が、「我」なのです。これは、原子の運動と温度の関係に似ているかもしれません。その集合体は因果律によって次の瞬間には別のものに変容していくので、普遍的な「我」は成立しないわけです。

はい、諸法無我。あるいは諸行無常も? そして、これを正しく認識していないから一切皆苦? まあいい、ともかく縁起によって生じたゆるい集合体のようなものが「我」に過ぎない。

とはいえ、われわれがふだん「仏教」と思っているのは大乗仏教で、そこではやや趣が違う。

仏陀になるための道筋は二つあるという。

第一条件は、仏陀に会って修行することを誓い、励ましてもらうこと。次に第二条件として、何に生まれ変わってもまわりの人(やウサギやサル)を助けること。すると最終的には、どこかで悟りを開いて仏陀になるはずである、というわけです。

となると、出家しなくても悟れるということになる。が、仏陀にどこかで会わなくちゃいけない。でも、釈迦は涅槃に入って消滅している。次の仏陀である弥勒が現れるまで五十六億七千万年ある。

さあどうしよう、というところで生み出されたのが、仏教的パラレルワールド。この世界の外に存在して、なおかつ影響力を与える存在。無限の寿命を持つ「無量寿」。インド語で「アミタ・アーユス」、すなわち阿弥陀仏。他力本願への転換が起こる。。「空」の発想も後から出てきたものというし。このあたりは、佐々木閑の著作でいうと、↓のあたりで取り扱ってるのかな

で、話は本書に戻って対話篇。

大栗 客観的な外的世界とそれを認識する側が一体になっていると考えるのですか。

佐々木 そうです。ただし大乗仏教になると、外の世界は心がつくり出す幻だという話になっていきますが。

大栗 西洋哲学の唯心論みたいなものですね。

佐々木 ええ。しかし釈迦は絶対にそのようなことを言いません。外界はたしかに存在すると考えるのが、釈迦オリジナルの仏教です。

釈迦の仏教は世界の法則を発見して自らを救うもの。大乗仏教は自分が救われるために世界の方を適切に再構築するもの。「色即是空」はアビダルマの「色法」を「空」として解釈したもの。うむ、ようわからん。

とはいえ、「我」についての基本だけはおさえておきたい。

大栗 では輪廻という特定の世界観ではなく、もっと広い意味で、死んだあとも何らかの形で自分という存在が継続していくと信じていらっしゃいますか。

佐々木 信じません。なぜなら釈迦の教えによれば、私たちの存在はたんなる構成要素のゆるやかな集合体にすぎず、それが生まれ変わり死に変わりに際して集合離散していくのが輪廻だからです。そこには「自己」という不変の実在はありません。これを仏教では「諸法無我」と言います。もし業のエネルギーがなければ、死によって発散した「私」は二度と再構成されないはずなのですが、そこに業が作用して、再び別の形で「私」を形成してしまうので、輪廻が繰り返されると言うのです。この「私たちは構成要素の集合体にすぎない」という考えは、釈迦独自の視点であり、私はそれを信じます。

 そうしますと、いま言いましたように、私は業や輪廻という現象を信じませんから、結果として、私という存在は、「再構成の可能性を持たない、構成要素のゆるやかな集合体だ」ということになります。それはつまり、私に死後の世界はない、ということを意味します。

これが佐々木閑の死生観というか世界観である。あるいは、現代には通用しない輪廻を否定したうえで佐々木閑の説く、釈迦の仏教の世界観、だろうか。なんというか、おもしろいと思う。おもしろいというと変かもしれないが。

なんというか、おれはこの俗世というものを生きるに能力も意欲も足りない人間だ。そして、おれはこういう人間だという無明の中にある。中にありながらも、仏教的な考え方はおもしろい。これがキリスト教イスラム教となると、どうしても「信仰」の中に入らねば意味がないようなところがあって、おれにはそれもだるい。まあ、佐々木先生も、三大宗教というけれど、二対一に分かれるって言ってるしな。

大栗 一神教では、神様が人間に生きる目的を与えてくれます。「神から役割が与えられているから、生きることには意味がある」と考えることができるのです。仏教は、人間には本来、生きる意味が与えられていると言いますか?

佐々木 言いません。

大栗 そこも大きな違いではないでしょうか。キリスト教は生きる意味を与えることで人間を救っているのだと思いますが、仏教にはそれがない。

佐々木 そうです。ですから、「生きることには意味がある」と言ってくれる宗教が大いに力を持ったときには、仏教はそれに太刀打ちできません。しかしみんなが「生きることには意味がない」と思い始めた時代には、逆にキリスト教イスラム教に利用価値がなくなってしまう。それに対して仏教は、本来的に意味を持たない自分の人生を、自分で意味づけしていこうという宗教ですから、有効性が高まるのです。

悟ってひとり愉悦の境地にいた釈迦が「梵天勧請」でしぶしぶ広めはじめた、消極的な仏教。病院のような存在。おれは病んでいるのだし、興味をもってもいいだろう。あ、あと、なんか仏教の話を読みたくなってるモードなのであまり触れなかったけれど、大栗先生の説く超弦理論ホログラフィー原理もおもしろかったです。まあ、おれが読んだらSFを読むのとおなじことだけれど。

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……このブログ、なんか仏教の話ばっかりだな、と思ってるそこの君! 目下のところあと三冊溜まってるからな。