おれとおまえと大五郎の寛容は不寛容に対して寛容たるべきか問題

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おれはここ一日くらい、頭の中で「おれとおまえと大五郎の寛容は不寛容に対して寛容たるべきか」ということについて考えてきた。だいたいおれは会社の年賀状のデザインなんかより、そんなことを考えて生きている。ただ、年賀状のデザインもIllustratorでテケテケっとできるのでなんとか生きていける。

このきっかけはなんだったか。ネットで見かけた以下の記事である。

togetter.com

女装をする人が、「女装はやめてくれないか」と友人に言われたという話である。友人というのは一人だ、ということにする。するとおれは、頭の中で、こういう考えが湧いてきた。

「おれとおまえ」の間の話と、「おれとおまえ」に大五郎が加わってくるのでは話が違うのではないか、と。大五郎がだれかは知らないが、社会というものは三人の人間が集まったところから始まる、とおれはなんとなく信じている。二人だと話は別だ。なにが別なのだろうか。おれはいろいろ書いては消した上で、このようにメモした。

 

「自分と会う日は女装をやめてくれないか」女装する東大生の悩みに意見が分かれる...自分の自由か?相手への配慮か? - Togetter

個人間の私的な領域と、社会や公共の領域で話は違ってくるか。例えば、信教の自由を認める一方で、親しい人に「その教団に入信するのはやめたほうがいい」と言うこともあるだろう。では、その領域の線引きとは……?

2019/12/24 01:01

もう、元の記事より自分の頭の中のほうがどこかに飛んでしまっている。以下は、元になった記事とはあまり関係ないかもしれないと断っておく。

で、おれがブックマークのコメントに書いた「個人間の私的な領域」というのは「おれとおまえ」の話である。社会や公共はそこに太郎や次郎や大五郎が加わったケースである。ようするに、「女装をやめてくれ」というのが一人の友人である場合と、大学生だから、えーと、ゼミとかサークルとか研究室とか(高卒なのでよくわからない)、そういった集団のなかの話である場合は別だということだ。前者であれば、相容れない意識だとして友人を切り捨ててもいいだろうし、「女装よりこいつとの関係性が大切だ」でもいい。好きにやればいい、ように思える。その二者間の関係をもって世間に問えば、話はもつれる。一方で、後者であれば、女装によってなにかしらの不利益を被るというのは、あってはならないことだろう。

が、「おれとおまえ」の話であればどうだろうか。そこでおれが思いついた例が、信仰であった。「信教の自由」という法、思想を尊び、支持する人であっても、親しい人が、たとえばあの頃のオウム真理教に入ろうとするのを止めることはありうるのではないか。ありうるというか、そこに社会全般の法、思想、あるいは規範と、個人的な言動にねじれが生じることは、否定し得ないのではないか、ということだ。いくら「信教の自由」の重要さをわかっていても、「おまえ、オウムはねえだろう」という、そういう心情というものはある。そこを否定しては、人間社会いうものなりたたないように思う。

一方で、たとえばオウム真理教ではなく、伝統的な仏教宗派やオーソドックスなキリスト教であったらどうだろうか(本来仏教はかなり社会に対して危険な思想なのだが、まあそれはそうとして)。無神論者の友人なり恋人なり家族なりが、その信仰を絶対的に否定する場合、それを世間はどう見るだろうか。パターナリズム(たぶん生まれて初めてこの言葉を使った)と言われる場合もあるだろう。息子や娘がパートナーとして連れてきた相手を父親が気に入らなくてぶん殴る、なんていうことはアウトだ。殴らずとも、性別や人種などが原因であれば、それは否定されるだろう。

……なにが、否定するのか。それは大五郎が、だろう。そこに公共や社会(規範、常識)といったものが立ち上がってきて、私的な関係性というものに介入する。

私的な領域とはなんだろうか。その前に、まず「私」というものがあるだろう。一個の個人だ。一個の個人があって、まあいろいろ考えている。

たとえばある人間が、内心で特定の人種に対して強烈なヘイトを抱えているとしよう。それは壮絶な憎しみと蔑みだ。しかし、そいつは一切そのことを表に出さない。何なら、ヘイトの対象に対しても友好的に振る舞えるし、だれもそれを疑わない。そんなやつがいるとする。

一方で、内心にヘイトらしいヘイトなぞ存在しない、真に平等主義者がいたとしよう。しかし、残念なことにその人はちょっとぶっきらぼうで、日々アップデートされていくPCにも疎く、無意識、無邪気に差別用語なども使ってしまう。聞く人によっては不愉快になるエスニック・ジョークを放ったりする。

この両者がそのままに生きて、死んだとする。後者について、わかる人はわかる、ということもあるかもしれないが、やはりPC的に大五郎から評価されるのは前者だろう。内側に渦巻くものがヘイトでなくてもいい。猟奇殺人の欲望、性的犯罪の欲望ということもあるだろう。だが、殺人を、性的犯罪を犯さないで一生を終えれば、そいつはまっとうなやつだったということになる。内心は、自由だ。そこに「私」があるように思う。まあ、そこだけにあるわけではないだろうが。もちろん、渦巻くものが出てしまって問題ないこともあるだろうし、出たことで社会の役に立つケースもあるだろう。なんかこう、心から人助けしたいやつとか、あるいは他のだれも注目しないものに夢中になって、科学的な大発見をしてしまうとか。

話が逸れた。逸れたが、そういった「私」、「個人」いうものがある。そして、大五郎がその言動を審査する。「社会」というものがあるとする。で、時間を巻き戻す。「おれとおまえ」、これをなんと名付けたらよいのであろうか。おればブックマークのコメントには「親しい人」と書いた。元の記事が個人間の関係なので、一人の友人のようなものが浮かんだ。あるいは、ほかのブックマークコメントに「恋人が変な格好をしていたら」というようなものが散見されたため、一人の恋人というものも浮かんだ。関係ないが、おれは彼女の人とショッピングなどしていて、えげつないデザインの服など見つけては「これ、どうですかね?」と言い、「買うなら君の好きにすればいいけど、一緒には歩かない」と返されるなんてやりとりが多かった。なかには「しかし、あれは買っとけばよかったよな」と思う服もあるけれど。

閑話休題。しかし、おれの頭にはなぜか宗教が頭に浮かんでしまった。正直に言うと、吉本隆明オウム真理教について述べていたなにか(なんかとんでもないことも言ってたけど)が頭に浮かんだ。「三人から社会が始まる」というのも父がよく言っていたことで、それも吉本隆明の受け売りじゃあないかと思っている。というわけで、「家族も?」となってしまった。家族となると、一対一とは限らない。両親、祖父母、きょうだい、おじやおば、従兄弟、父親が京都に単身赴任したときに愛人との間にできた異母きょうだいの八ツ橋……。ただ、親類縁者というレベルの人数になると、「おれとおまえ」ではなく、「社会」になってしまうような感じもする。その境界は明確ではない。

整理する(と言いつつ、今これをタイプしているおれの頭の中は整理されていません)。個人←→(なにかの関係性)←→社会。ぼんやりとそんな構図は描けるような気がする。三角形にしてもいいが、面倒なのでやらん(ピラミッド型ではない)。ともかく、「なにかの関係性」があって、そこは伝説の爆撃機である個人と、もっと大勢の、それこそ何億もの人間が構成する社会がある。村社会というのもあるかもしれない。

で、そこでですよ、ようやく寛容は不寛容に対して寛容たるべきか、という話をしたい。寛容は不寛容に対して寛容たるべきか。これは小学校の国語の教科書に載っていた話で、国語が得意(というかそれしか取り柄のない)おれにもむずかしく、さらには担任教師があからさまに「わからない」というのが伝わってきて、「ここまで教科書に負けている教師というものを初めて見た」と思ったものだった。とはいえ、おれも当然「わからない」のであって、長年心に抱えて生きてきた。それについては、以前も書いたことがある。

goldhead.hatenablog.com

……11年前に自分が書いたことが、わからん。おまえは何を言ってるんだ? どこのワカメだ? もう昔のことは忘れよう。いや、忘れない。そもそもの問いかけ、寛容と不寛容があるという二分法に疑いを持て、ということはなかろうか。そもそも、「寛容は」と言ってるやつはだれなんだ。そいつは本当に寛容なのか。ちゃぶ台ひっくり返して、そこから考えるべきなんじゃないか、という気もする。そうだ、たとえば、おれが「信教の自由」を尊びながら、近しい人がオウム真理教に入るのを止めようとすることは矛盾しない、と思ったように。

まあ、わからなくても当然か。Wikipediaにはこんな項目もある。おれはポパーロールズ渡辺一夫も読んだことはないがな(たぶん読んでもむずかしくてわからない。おれの組成は小学校六年生のころとほとんど変わっていない)。

寛容のパラドックス - Wikipedia

では、なんなのだ。なにが、なんなんのだ。個人、対幻想、共同体? わけがわからん。おれはまず、自分の意思とはまったく関係ないところでこの世に作り出されてしまった我が身というものがあり(知っての通りおれはシオラン好きの反出生主義者だ)、いかんともしがたい自我というようなものがあって、あるいは実存とでもいうべきものを頭から否定し難く思う。

そして、なんらかの、小さな関係、「おれとおまえ」、あるいは家族レベルのなにかがあって、さらにその上の社会、あるいは国家といっていいのか、そういったものがある。ただ、「おれとおまえ」を飛び越えた、個人と社会の関係というものもあるだろう。

はたして、それをきれいに腑分けしたところから話を始めるべきなのだろうか。ただ、おれの予測では、腑分けするラインというものは常に揺れ動くものだ。どこか一方に向かっているのか、行ったり来たりするのか、それはわからん。

あるいは、おれが考えるような三分割も大間違いという可能性もある。おれはこれをだれに習ったというわけでもない。ひょっとしたら、北一輝の言うようにいずれ人類は滅亡して神類になって、国家人格実在論が正しかった、ということもあるだろう。すべては一体だ。不ニの法門だ。……ぶつぶつ。

あ、なんだっけ。まあ、今日もおれの人生はよくわからなかったし、それゆえに世界は無明である。暗愚なおれが悪い。でも、おまえもちょっと悪いかもしれないし、大五郎にもよくないところがあったかもしれない。そのあたりは、コーンフレークでも食いながらゆっくり話し合おう。コーンフレーク、ふにゃふにゃになっちまうがな。

 

以上

 

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