『禅と日本文化』鈴木大拙著/北川桃雄訳

goldhead2007-04-02

禅と日本文化 (岩波新書)
 大拙先生の逆輸入もの。『禅』(工藤澄子訳)よりも、「できるだけ文体に親しみ、慣用の語句を知ろうとした」(後記)とあって、‘大拙節’らしさはけっこうある。でも、やっぱり本人による日本文の迫力は別格。

 でも、この本、迫力というか、けっこうけれんがある、脅しがある、大見得がある、などといってはおかしいことだろうけれど、まあ、それは言い過ぎだとしても、外国人、西洋人に向けて禅、日本文化の凄味、というと変かもしれないが、かなりびびらせるような内容に思える。時代も時代、1938年という時代背景、あるいは国内の目も意識したか、そのあたりも、影響しようか。戦時下に書かれた『日本的霊性』にもそれは多少感じる(けど、神道をあんまり評価したりはしない)。
 それで、なんとなく、『禅』やこの本あたりから、ハリウッド映画に描かれるような武道の真髄的描写、カンフーキッズだとか、マスター・ヨーダだとか、そういう元ネタになったというか、あるいはサムライなんかの、もちろん勘違いもあるけれど、ステロタイプとしてそれほど間違って無いというか、そういうものの元になってんじゃねえかって、そういう気もする。

北川桃雄君の丹念でできあがった本書、たいていは吾意をえている。だいたいの意向が汲みとられれば、それでよい。

 と原著者序文にあるように、まあ仏教は方便なのやもしれず。もとより不立文字なんだよな。

 中の「禅と剣道」の章で紹介されていた沢庵和尚から柳生但馬守への書簡を孫引き(用字は本書ママ)。

……さて初心の地より修行して不動智の位に至れば、立帰て、往地の初心の位へ落つべき仔細御入り候。貴殿の兵法にて可申候。初心は身に持つ太刀の構へも知らぬものなれば、身に心の止る事もなし。人が打ち候へば、つひ取合うばかりにて、何の心もなし。然る処にさまざまの事を習ひ、身に持つ太刀の取様、心の置所、いろいろの事を教へぬれば、色々の処に心が止り、人を打たんとすれば、兔や角して、殊の外不自由なる事、日を重ね年月をかさね、稽古をするに従ひ、後は身の構へも太刀の取様も、みな心のなくなりて、唯最初の、何もしらず習はぬ時の、心の様になる也。是れ初と終と同じやうになる心持にて、一から十までかぞへまはせば、一と十と隣になり申し候。……

 これ読みながら思い浮かべたことがある。これってこないだこちら(id:rna:20070327:p1)で知ったこちら(id:softether:20070324#p1)の「そのもの、かどうかはわからないけれど、大意は一緒なんじゃないかと。
 ただ、そちらでは「一切努力をしたり、苦労することがなく気楽である」と、発想の転換だけでことがなし得るように書かれているが、その前段階、論理的思考でことを疑う前に、「身に持つ太刀の取様」は習得の必要がある。プログラミングのプの字もわからない俺がパソコンの前に座って、努力せず、論理的に考えず、頭を使わなかったら、ハローワールド一つできない。俺の例は極端でも、やはり「身に持つ太刀の取様」の極めた先に、隣り合った一と十があるのではないだろうか。たとえ、六、七、八といえども、一足飛びに十と隣り合った一には至れない、と。
 さらには、次の点も一致しているように思った。

心を身体のいかなる一部分にも残しておくべきではない。身体のあらゆる部分に心を充せて思ふままに働かせねばならぬ。なにかなすという考えは、心をその一方向に向け、他のすべての方面が等閑にされる。考えるな、思い煩うな、分別を持つな、そうすれば心は至るところに行きわたってその全力が働き、つぎつぎと手近の仕事を成就するであろう。

 これが、「論理的思考の放棄の具体的方法」(id:softether:20070326#p2)に似ているんじゃないかと。禅、そして剣の道では心が「止まる」ことを有害とする。自分の身の一部にも、敵の動きにもとらわれてはならない。とらわれてはならないということにとらわれてもならない。電光石火、間一髮。

 さて、それって本当にあるんだろうか、という疑問もある。凡夫が千手観音をして「なまものじりなる人は、身一つに千の眼が、何しにあるらん、虚言よ。と破り譏る也」という具合だ。俺は何事にも通じるものがないので、あるのかないのかわからん。わからんが、沢庵和尚であれ、柳生宗矩であれ、登大遊さんであれ、通じた人が似たようなことを言う(登さん、上のリンク先以外一切どんな人か存じ上げないのだけれど、その道で有名な人らしいので)。おおもとを禅としていいのかどうか知らんけれども、禅剣一如のようなものは、あらゆる分野にもあるだろう。だから、どうもやっぱり道をきわめたところに通ずるなにかはあるんじゃねえかって、そう思っておこうと思うのであったりするのであった。