秋月龍みん『公案 実践的禅入門』を読む

公案―実践的禅入門 (ちくま学芸文庫)

公案―実践的禅入門 (ちくま学芸文庫)

……元来「密は却って汝が辺にあり」であり、「われ汝に隠すなし」というのが禅者の真面目であるのだから、今日室内の秘事などというものが後生大事にかかえ込まれて職業宗教家(師家)の飯の種になどなる必要は露さらさらない。

 読んだと思ったが読んでいなかった、秋月さん(いちいち王偏に民と書くのが面倒なので)の公案入門本である。して、本書は本書にも出てくる「例の本」([こんなものあっていいのか? ひろさちや『公案解答集』を読む - 関内関外日記(跡地))、すなわち『現代相似禅評論』よりも懇切丁寧に公案の委細を明かしてしまっているように思えてならない(もっとも、「例の本」は公案の裏どころか表すら行き届いていないらしいが)。公案を「法身・機関・言詮・難透・向上」に分けて説明してくれたり、なんというか、そりゃ解答集にはかなわないけれども、てな具合で。
 もっとも、著者の言うところ上記の通りだろう。鈴木大拙も「分かる者は肯心自ら許し、分からぬ者は〈秘事〉を授けられても分からずに了るのであるから、それを明かす明かさぬなどということは問題にならぬ」と言われたそうで。
 もちろんおれは分からぬ者であって、「門」の前でチラチラ覗き見している門前の通行人。とはいえ、この禅の公案というものは読んでいておもしろくてたまらない。なんに分類されるのかわからない言葉がそこにはある。文学、芸術の部類でもなさそうだが、お経の類でもない、かといって実用文書とも言いがたい。むろん、ある宗教のある境地へ行くための手段のための言葉ではあるが、どこかとんでもないところに行っている。こんな素っ頓狂なものは……やっぱり残されるべきだよな、と。まるで分からん人間が目にすることになろうが、それに誤解されるようなことがあろうが、なんであろうが、おもしれえから。おれはそう思う。「茶碗の中でトンボ返りを打ってみよ」とか、「豆腐の上で四股を踏んでみよ」とか、なにそれ? という話だ。え、就活の面接の無理難題に似ている? かもしれないが。まあともかく、仏教の一部としてでなく、人間というものが作り出したたくさんの中のものの、妙なものとして公案というものは伝えられるというか、保存しておくべきじゃあないの、と。

「伝統というものは出来上がるには時間がかかるが、亡びる時には本当にあっという間に消えてしまう。生きた伝統というものは、思うに三十年断絶したら、もうダメになってしまうものではなかろうか。数百年の伝統が絶えることはなんとしても惜しい。今日はもはや室内の秘密などということを言っている時ではあるまい。君たちの時代には思いきって文字化しておくべきではないか」

 とは務台理作の言葉らしいが、そういうことだ。
 というわけで、「解答」はないにせよ(「解答」などない、のかもしらんが)、ある一派の公案が読める本書はありがたいものである。そしておれは、今現在、どこぞの禅寺で公案に打ち込んでいる学人がいるのか、それを導く良い師家がいるのか、そんなことにまったく興味なんぞないのである。まさしくマッポーの世ではある。おしまい。