- 作者: ひろさちや
- 出版社/メーカー: 四季社
- 発売日: 2005/01/01
- メディア: 単行本
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で、そもそも門外漢が仏教なり禅なりの世界を覗き見しているにすぎないのに、「この著者はいかほどの人だろうか」と心のうちではかろうとしてしまう。これは悪い癖。
でも、まあいいか。で、ひろさちやはどうなのだろうか。おれはこないだの一冊を手にするまで、その膨大な量の著作の一冊も手にとったことがなかった。鈴木大拙あたりから興味を持って秋月龍みんあたりをうろうろ、松岡正剛で空海あたりをうろうろ、吉本隆明で親鸞と良寛あたりをうろうろといった具合だ。「仏教に興味がわいたから入門書を手にとってみよう」という感じではなかった。もしもそういう「感じ」であれば、ひろさちやの入門書を手にとった可能性は低くなかろう。
でもって、ひろさちやはどうだろうか。たいへんわかりやすく書かれているな、という印象はあった。自分は正式な禅者ではない、やはり門外漢だからという距離感もしっかりしていた。それでいて『無門関』のすべてを訳し、自らの見解を提出し、超訳までしてしまうのだからたいしたもんだ。
であるのだが、なんとなくそりが合わないな、と思った。こればかりは仕方ない。河合隼雄(『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』を読む - 関内関外日記(跡地))みたいな感じだ。どうも、どっかしら合わないところがある。これまた河合隼雄の例と同じく、仏教の解説や見解のどこそこがおかしいだなんてことは言えやしない(まあおれは正式に教育を受けたわけでも修行したわけでもないからなにも言えやしないんだけれど)。言えやしないけど、どっかなんか合わないところがある。関西弁らしきものに、けむにまかれれるような気がする。切れ味するどいもの隠し持ってるけど、出してきてないなという印象。これはもう趣味的なものだけど、さくさく斬りつけてほしいというところがある。とはいえ、入門書がそれではあかんのかもしれない。なにはともあれ方便は仏教のコアの一つ。おれにはおれに合ったものを読むのがよろしいとでも思っておこう。おしまい。