竹内整一『ありてなければ「無常」の日本精神史』を読む

 

ありてなければ 「無常」の日本精神史 (角川ソフィア文庫)
 

なんとなく手にとった一冊。

この本で言う「無常」は、釈尊の仏教のコアな意味での「無常」ではなく、「祇園精舎の鐘の声~」的な、日本人の「無常観」に近い。というか、タイトルに「日本精神史」って書いてあるし。

……「はかない」とは、「はか」がないこと、つまり「はかがいく」「はかどる」の「はか」がないことです。「はかがいく」ように、努めても努めてもその結果をたしかに手に入れられないことから、あっけない、むなしい、という意味をもつようになった言葉です。

して、「はかない」日本人。この「はか」の由来については松岡正剛だかだれだかの本でも読んだことがある。「はか」とは「はかる」に通じ、それは西洋近代の科学技術の基本思想に通じ、プロスペクティブに通じる、という。その「はか」第一主義のbusiness社会にある現代日本、心を亡ぼす忙し社会の日本において、「はかない」指向を見直してみませんか、というような感じだろうか。

して、ありてなければ、夢の話。夢の中へ、あるいは夢の外へ、そうでもなければ夢うつつの境界へ、ということにもなる。

蟪蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや

夏蝉は春も秋も知らないのだから、夏を知ってるといえようか、という。これは親鸞の『教行信証』に出てくる……もとは曇鸞の『浄土論註』だからひ孫引きくらいになるのだろうか、なるほどと思わせてくれる話ではある。われわれはこの世にあってこの世しか知らぬから、この世がなんであるか知りもしない。それが夢へのいざないでもある。これは関係性、因縁のなかにしかあり得ないわれわれという、仏教のコアにも通じる話かもしれない(違うかもしれない)。

話は変わって酒。『万葉集』の大伴旅人

賢しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするし優りたるらし

古語読解はおれのわからぬ範疇なのでなんとも言えぬが、酒飲んで泣いてるほうが賢いふりして物言うよりはマシだぜ、というのはわかる。人間なんて、かなり昔からそんなものなのだろう。

『一言芳談』からはこんなのが引用されていた。

あひかまへて、今生は一夜のやどり、夢幻の世、とてもかくてもありなむと、真実に思ふべきなり。

『一言芳談』については吉本隆明の本を読んだ。

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吉本は「短章であること」を評価している。おれもシオランを読んでアフォリズムはよいと思ったので、よいのである。ただひたすらに「疾く死ばや」。これは「夢の外へ」の思想、しかし、この世を夢と思うかどうかで「夢の内へ」も入ってくるかもしれない。そのアンビバレントで微妙なところがこの国に生きた人々の無常観なのやもしれぬ。

おれの知らぬ能、謡曲の世界。

これはなつかし、君ここに、須磨の浦曲の、松の行平、立ち帰り来ば、われも木陰に、いざ立ち寄りて、磯馴松の、なつかしや。

「黒塚」。「なつかしい」という言葉は、もとは現在形の「なつく(懐く)」。言われてみればハッとする。人はみな……かどうかわからぬが、語源の話がわりと好きなような気がする。おれは好きだ。

そういうわけで、語源もう一丁。

「せめて」とは、「《セメ(攻・迫)テの意。物事に迫め寄って、無理にもと心をつくすが、及ばない場合には、少なくともこれだけはと希望をこめる意」です(『岩波古語辞典』)。

そうか、「せめて」とは、もっと切実な、力のこもった言葉だったのだな、とか。

さて、話は変わって『葉隠

 何某、喧嘩打返をせぬゆへに恥に成りたり。打返の仕様は踏懸て切殺さるる事也。……恥をかかぬ仕様は別也。死まで也。其場に不叶ば打返し也。是には知恵も入ぬ也。曲者というふは勝負を不考、無二無三に死狂ひするばかり也。是にて夢覚むる也。

喧嘩を売られたら、打返して斬り殺されればそれでよい。死狂ひの思想。

ともかく、無明逆流れなのである。本書の主題としては「夢覚むる」にあるのだろうが、ここんところが「できなかった告白と、逃げた喧嘩は一生後悔する」(ネットのどこかで見た言葉)という思想を持つおれには、『葉隠』のシグルイが気になったわけである。

さて、時は近代。福沢諭吉先生曰く、以下のごとし。

……宇宙無辺の考を以て独り自ら観ずれば、日月も小なり地球も微なり。況して人間の如き、無知、無力見る影もなき蛆虫同様の小動物にして、石火電光の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀楽の一夢中、忽ち消えて痕なきのみ。

『福翁百話』より。こんなシオランもびっくり(びっくりしないかもしれない)の、人間を蛆虫とする虚無派がお札の顔になっている日本という国よ。もっとも、福沢先生は実学を問いたのだが……。

平生は塾務を大切にして一生懸命に勉強もすれば心配もすれども、本当の私の心事の真面目を申せば、この勉強心配は浮世の戯れ、仮の相ですから、勉めながらも誠に安気です。

 と、『福翁自伝』にあるという。「本来無一物の安心」というものという。これは、夢と現のあわひへ、ということになるらしい。

……と、なんか孫引きばかりになって、この本はどうなのよ? ということになりそうだが、まあおれが引用したような部分から、どんな感じなのか受け取ってもらえればと思う。べつに受け取らなくてもいい。その上で、興味を持ったならば『ありてなければ』に当たってほしい。当たらなくてもいい。おれはただ、なんともなしに、この日本とか呼ばれる地域に暮らす人間のメンタリティいうのは、今も昔も変わらんのかなと思ったりしたくらいである。以上。