こんなに面白い本があるか!(今のおれに)『シオラン対談集』を読む

 

シオラン対談集 (叢書・ウニベルシタス)

シオラン対談集 (叢書・ウニベルシタス)

 

今、シオランにハマっているおれにとって、これは非常に、とても、かなり、すごく、面白い本なのであった。シオラン? という人にとってどうかはわからない。だが、もしもシオラン? という人がいるとすれば、一、二冊著作を読むくらいで、この本は相当に面白く感じられるだろう。そう願う。

つうわけで、シオランの対談集だ。対談集といっても、シオランが哲学者だの思想家だのを相手に選び、なにかについてとことん語る、という本ではない。新聞や雑誌のインタビューが多い(とはいえ、哲学者も出てくるし、インタビュアーはしっかりした見識の持ち主だけど)。だから、同じエピソードが何度も出てくる。でも、それによってシオラン像が浮き出てくるようで、そこが面白いんだ。

サヴァテール―幸福な少年時代だったんですか?

シオラン―それはとても重要なことです。というのも、私の少年時代よりも幸福な少年時代の事例にひとつとしてお目にかかったことがないからです。カルパチア山脈の近くで、私は義務も宿題もなく野山を自由に遊びまわっていました。それは異常に幸福な少年時代でした。その後、少年時代について人と話したことがありますが、私の少年時代に匹敵するものに出会ったことはありませんね。できれば私は、この村から決して離れたくなかった。両親が私を町のリセに連れてゆくために私を馬車に乗せた日、あの日のことは忘れられません。それは私の夢の終わった日、私の世界がついえ去った日でした。

幸福な少年時代があったからこその、後のシオラン。落差が生んだ不幸、呪詛、歴史への疑義。この少年時代については、本書で何回も語られる。ちなみに、おれはといえば、幼稚園に入園する日が幸福時代の終わりだった。おれの幸福は短かった。おれは集団というものを忌み嫌う。

……もっと極端なことを言えば、もし書かなかったら、私は人殺しになっていたかも知れませんよ。表現とは解放です。あなたが誰かを憎んでいて、そいつを厄介払いしたいと思っているなら、こうやってみてはどうでしょうか。つまり、一枚の紙を取り上げ、そこにXのバカ野郎、悪党め、人でなし、怪物めと書きつける。そうすれば、憎しみがやわらいだことにすぐ気づきますよ。私が自分自身にたいしてやってきたのはまさにこういうことです。私は生を、そして私自身を罵倒するために書きました。その結果ですって? 自分自身の存在によりよく耐え、生によりよく耐えることができました。

自殺という選択肢を持つによって生き、書くことによって生に耐えたシオラン。自分自身への罵倒、表現による解放。ちっぽけながら、おれにもそういうところはあると思う。もしもおれがブログなりなんなり「書く」ということがなければ、どうなっていたかわからないというところはある。自殺なり、人殺しなり。おれはおれに向かって書く。特定のだれかに向かって書く。不特定多数のだれかに向かって書く。ブログのいいところは、数人に読まれているのか、数十人に読まれているのか、そのあたりが曖昧なところだ。

 

……『ル・モンド』紙の批評家が「あなたはわかっていない。若者がこの本(引用者注:『崩壊概論』)を手にするかもしれないんですよ!」と非難の手紙をよこしたことがありました。バカげたことですよ。本が何かの役に立つとでも思っているんですかね。何かを知るための? そんなこと、ぜんぜん関係ない。だってそうでしょ、何かを知るためだったら、授業に出ればいいんですから。そうじゃなくて、本というのは正真正銘ひとつの傷口であって、読者の生をなんらかの意味で変えるものでなければならないと思っているんですよ。だれかを目覚めさせ、打ちのめしてやれ、私はそう思って本を書いている。私が書いた本は、私の苦しみとまでは言わないまでも、私の不安がもとになっていますから、私の本がいわば読者に伝えるものといえば、当然そういう不安のはずです。そう、私はね、新聞を読むように読まれる本が好きじゃないんです。

これも痛烈にいい。おれはあまり「役に立つ本」が好きではない。自己啓発、ビジネス書、まったく興味がない。そんなものに一秒も使いたくない。それよりも、シオランなど読んで打ちのめされたい。ラーメンが獣臭い本、人殺しの顔をしている本、そういうものを読みたい。

本を読んでも、読者が読む前と同じ人間でいられるような本、こういう本は失敗作ですよ。

まさに。

 

サヴァテール―ユートピアとは、いわば社会に内在する非超越的な権力の問題ですよね。シオランさん、権力とは何ですか。

シオラン―権力とは悪しきもの、きわめて悪しきものと思います。権力が存在するという事実にたいして、どうしようもないものと諦めていますが、でも、権力とは、一種の災厄だとも思うんですよ。私はね、権力を掌握した人間をなんにんか知っていますが、そういう人間にはちょっと恐るべきところがある。有名になった作家にあるのと同じ恐るべきところがね。まあ、制服を着ているようなものですかね。制服を着ちゃうと、人間はもう同じ人間ではない。つまりね、権力を掌握するというのは、いつも同じの、目に見えない制服を着るということですよ。

「巨大なものはすべて悪である」と田村隆一は書いた。権力はすべて悪しきもの。アナーキーといっていいのかどうか知らん。制服を着た人間……人間は腕章一つで変わるとおれは書いたことがある。

制服の世界 - 関内関外日記(跡地)

それでもわれわれはときに自分の制服を着て、悪しきものにならねばならぬ。果たして、政治家とかいう連中は、自らを悪しきものであるという一片の自覚でもあるのだろうか。あってほしいものだが。

 

ベルツ―とすると、人はそれぞれもう自分のために生きているのであって、だれか他人のために生きているのではないということになりませんか。

シオラン―いや、そういうことはない。私はエゴイストじゃない。エゴイストという言葉は、まったくふさわしくないでしょうね。私は思いやりのある人間で、他人の苦しみは、じかに私に響く。でも人類が明日消えてなくなっても、私にはどうでもいい。最近、「不可避の災厄」という一文を書いたほどですよ。人類の消滅、これは私の気に入りの観念でしてね。

このあたりがシオランの面白さだ。他人の苦しみは自分に響くといい、一方で、人類など消滅してしまってもいい、消滅するべきだという。心優しき反出生主義である。苦しみの再生産に異議を唱える。おれも、今いる人間を殺すほどではないが、新たに増やす必要はない、という立場を取る。シオランを読む前から。

 

……でも、こういうアフォリズムのたぐいは、崩壊しつつある文明にはまことにふさわしいと私は考えます。もちろん、アフォリズムの本を端から端まで読む必要はない。混沌の印象、真面目さがまったくないという印象を受けますからね。こういう本は、もっぱら夜、寝る前に読むに限ります。あるいは、ふさぎの虫にとりつかれているときとか、嫌悪感にとりつかれているときとかねに。

あはは、おれが思ったことを言ってくれた。愉快だ。

goldhead.hatenablog.com

おれは「ふさぎの虫」にとりつかれたとき、それでも読めるのはアフォリズムだ。そう思った。シオランも言っているのだから、そうなのだ。精神疾患を抱えて、ときおり動けなくなるあなた、シオランの一冊でも用意しておくといい。むろん、それによって快方に向かうなんてことはないのだけれど。

 

……私は詭弁家ではないですから。モラリストは詭弁家じゃない。私のアフォリズムは経験のなかで考えついた真実、不統一を装った真実ですから。そのように受け取ってもらわないとね。でも、アフォリズムには明らかに利点がある。それは証明する必要がないということ。平手打ちを食らわせるように、アフォリズムを叩きつけるわけですよ。

モラリスト - Wikipedia

「道徳家」(moralisateur)とは別の概念であり、日常的にはそのような意味で使われることがあるが、混同されるべきではない。道徳家は道徳を教える教訓を書くのであるが、モラリストはまず記述的な姿勢を取るのであり、道徳家とはむしろ対極的である。

できることなら、Wikipediaのこの項目にシオランの名前も連ねたいところだ(フランス語版には関連項目としてシオランの名がある)。シャンフォールなどシオランがよく言及する名前だ。

 

……すると、時代というものを考慮しなければなりませんが、神父の、実際は東方正教会の司祭の妻だった母が私にこう言ったのです。「わかっていれば、中絶しておくんだった!」と。この言葉は私を打ちのめすどころか、私にとって解放であったと言わなければなりません。この言葉で、私は気力を取り戻した……と言いますのも、自分がまぎれもないひとつの偶発事にすぎず、自分の生を真面目に考える必要がないことがわかったからです。それは解放の言葉でした。

このエピソードも本書に何度か出てくる。しょせん、人間は偶発事によってこの世に生み出されたにすぎない。そして、それは呪われたことかもしれない。一方で、自由なことであるかもしれない。

アルミーラ―性についてはほとんどお書きになりませんね。

シオランセリーヌによれば、愛とはプードル犬でさえ手にすることのできる無限だということですが、私の知る限り、これが最良の定義ですね。

そしてこう来た。シオランは人間の誕生など、滑稽なこと(性交)が原因にすぎない、みたいなことを言う。して、ここでセリーヌの名前が出てきた。おれが苦しみながら全集を読み切った唯一の作家であるセリーヌ

ラダッツ―セリーヌはご存知ですか?

シオラン―いえ、知りません。

まあ、直接の知り合いではなかったようだが。

 

ヤーコブ―救いとおっしゃいましたね。でもあなたの歴史についての一般的な見解は否定的なものですね。それはデカダンスとしての歴史観ですか?

シオラン―その通りです。私の個人的な考えでは、中国が強国になり、ロシアがその中国を脅威に想うようになってはじめて、西欧は救われます。事態が現在のままなら、西欧はロシアの圧力に屈するおとになるでしょうね。シニックな論理に違いないにしろ、歴史の論理があるとすれば、ロシアはヨーロッパの支配者になるはずですよ。でも歴史には例外がありますからね。ヨーロッパを救うことができるもの、それはアジアの目覚めですね。

「歴史とは列強の連続」というシオラン。その出自とロシア観。さて、果たしてロシアは脆弱な民主主義の西欧を救うことができるのか。そして、中国は脅威になったか。中国は脅威の国になった。しかし、(ロシアから?)ヨーロッパを救うどころか、中国自体が世界を脅かすほど巨大になったようにも思える。さて。

 

ヤーコブ―すでにお話いただいた、あの長期にわたる不眠、その傷口からこの本は噴出したのですね。この状態はいつ克服できたのですか。

シオラン―始まってから七、八年たってからですね。自転車でフランスを走破する旅に出ましてね、それで治りました。数ヶ月にわたってフランスを走りまわり、ユースホステルに泊まり、一日に数百キロ走破するという身体上の努力を重ねて、私は危機を克服することができました。昼間これだけ走れば、夜は眠れますよ。眠らなければ、走りつづけられませんよ。ですから、私の不眠が治ったのは哲学的考察によってではなく、身体上の努力によってですが、同時にそれは私には喜びでした。私はいつも野外に出ました。そして労働者や農民といった素朴な人々と話し合い、フランスを理解したのも野外においてでした。私にはとても豊かな経験でしたね。

最後に、自転車乗りとしてのシオラン。自転車旅については著作でもいくらか記述があったが、かなり乗っている。というか、シオラン、その物言いから内向的で気難しい、孤狼の人のように思われているが、実際のところそうではないな、というのが本書から受ける。いや、実際というと語弊があるが、なんというか、世間的な存在であるシオランは、わりと健康的で社交的な人だな、という。このあたりは、たとえば澁澤龍彦が衒学趣味一辺倒の、自室にこもる人……ではなく、快活でさっぱりと明るい人間だったっぽいところに似ているような気もする。ちなみに、澁澤龍彦の著作で、少なくとも二回ほどシオランの名前に言及しているのは検索で確認できた。盟友とも言える出口裕弘シオランを訳しているし、そうでなくとも澁澤好みの考えの持ち主だったろう。

というわけで、いくらか人となりについて知ったところで、さらにシオランを読み進めよう。今のところ、飽きるところを覚えない。

 

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