E.M.シオラン『歴史とユートピア』を読む

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 地上楽園の信奉者たちと私との不和の、その深い理由を指摘せねばならぬとしたら、私は次のように明言しよう。すなわち、人間の抱く一切の企図が、遅かれ早かれ人間自身に刃を向けることになる以上は、理想的な社会形態を追求してもむだなことだ、と。人間の行為は、たとえ高潔なものであろうとも、結局は人間を粉砕するべく、人間の前に立ちふさがるのである。各人は、例外なく、おのれの夢見るものの犠牲となり、おのれの実現するものの犠牲となるだろう。

「日本版への序」

ここにシオランの反動性を見ることができるかもしれない。人間の知性や理性によって計画された社会設計を実現させることにより、よりよい社会になる、そういった左翼思想に対する痛烈な批判である。

だからといって、シオランが保守思想者なのかというと、まったく違うような気がしてならない。積み重なった経験則によって、じわじわと社会を良くしていく、などという思想ともかけ離れている。

つまりは、生というもの自体を否定し、人間というものに絶望している人間なのである。その感じは、おれにとってとても支持したくなるものに違いない。反出生主義にそもそも右も左もないじゃないか。

自由は病める社会でしか繁栄することができません。寛容と無能力とは同義語なのです。政治において、いや一切の事象において、これは明白な事実です。

「社会の二つの典型について」

そう、そして自由ですら否定してみせる。「自由を所有している私たちにとっては、自由とは幻影にすぎません」。

思想について。

急所を狙いうちしたいと望まれるのか? それならまず、君と同じ種類の思想を持ち、同じ偏見を持ち、君と同じ道を並んで走ろうするあげく、必然的に君を押しのけ、あるいは君を打倒することを夢見る人間を精算すべきであろう。彼らこそは君のもっとも危険な敵手なのだ。

「暴君学校」

レームを粛清したヒトラー、アンギアン公(アンギャン公)を処刑したナポレオン、多すぎて名前が挙げられていないスターリン……。

絶対的権力とはなまやさしい事業ではない。ただ、桁外れの大根役者か人殺しのみが、この事業に異彩を放つことができるのである。良心の呵責にうちのめされた圧制者というものほど、人間的見地からは讃仰すべく、歴史的見地からすれば哀れをとどめたものはあるまい。

「暴君学校」

われわれが今、このとき、圧制者とみなしうる人物はいるだろうか? そいつは大根役者か人殺しか、はたして見分けがつうだろうか。それとも、今どき圧制者なんてものは存在しうるのであろうか。

さて、政治の源に嫉妬があり、それゆえに同じ道の者を精算しろ、といったが、個々人についてはどうだろうか。

 同時代に生まれることを「選んだ」すべての人間、私たちと並んで走り、私たちの歩みをさまたげ、私たちを後方に取り残そうするあらゆる人間に、私たちは恨みを抱く。はっきり言ってしまえば、すべての同時代人はいまわしいのである。私たちは死者の優越性は仕方なしにみとめても、生者のそれをみとめることは決してない。生ある者は、その存在自体が、私たちに向けられた一個の非難、ひとつの叱責、謙譲という目くるめきへの勧誘となるのだから。おびただしい数の同胞が私たちを凌駕しているという、この明白な、耐えがたい事実を、私たちは本能的な、あるいは絶望的な詐術によって、あらゆる才能を僭取しつつ、自分だけが比類なき人間たる特権を持つのだと言いはりつつ、たくみに回避してしまう。競争相手のそばにいては、お手本のそばにいては窒息してしまう。

「怨恨のオデュッセイア

よく、インターネットの登場によって、ある分野のちょっとした才能(村一番くらいの才能)が、いきなり世界一の才能と戦わなければならなくなってしまった、という話がある。それによって打ちのめされてしまう自信や自尊心というものもあるだろう。そして、シオランはネットなんてものは存在しない時代に、こんなふうに言い切っている。村で一番の歌い手も、町で一番の利口者も、いつの時代だってそれ以上の同時代存在に負け続けてきた。さもなければ本当の井の中の蛙なのかどうか。蛙であることが本能的な回避、なのかもしれないが。

それにしても、この嫉妬心、みなさんはお持ちですか? おれは持っている。おれの趣味、とりわけ読書などが昔好みなのは、それによると言っていい。死者のものは安心して読める。おれは嫉妬と恨みの人間であるとおぼえておいてほしい。

 

 どこの街でもよい、たまたま足の向いた大都市で、よくここに反乱が起こらずにいるものだ、大虐殺が、名状しがたい惨鼻の屠殺が、世界の終りの擾乱が毎日のように突発せずにすんでいるものだ、と感嘆してしまう。かくも圧縮された空間に、かくもおびただしい人間が、どうして殺しあいもせず、いのちに関わるまで憎みあうこともなく共存していられるのであろう。ありていに言えば、彼等は憎みあっているのであるが、憎悪を実行に移すだけの能がないのである。この凡庸さ、この無能力が社会を救い、その持続と安定を保証しているわけだ。

ユートピアの構造」

シオランは最後の著作ですら「私たちがこの地上にいるのは、互いに苦しめあうためだ。ほかになんの理由もない」と書くくらいなのであって、この人間観、世界観は不動であり、根底にあるもののようだ。あと、関係ないけれど東京の満員電車など何年かに一度体験すると、おれもシオランと同じような感嘆を抱いてしまう。よくみんな……平気だな。いや、そのぶん、おれの二倍、三倍、それ以上のお賃金を得ているのだろうが。

して、ユートピア

 労働の優位性を説くことによって、各種ユートピアは『創世記』と真向から対立せざるをえなかった。[創世記によれば、労働は人間堕落の帰結である]特にこの点で、ユートピアは、勤労の中に飲み込まれた人類、原初の堕落のもたらしたさまざまの帰結に満足し、またこれを誇りとする人類の一表現にほかならぬ。堕落の帰結として一番重大なのは、何といっても能率という固定観念であろう。「額の汗」を深く愛し、これを以て高貴のしるしとし、大よろこびで働きまわり労苦を背負いこむ一種属の烙印を、私たちは鼻高々で見せびらかして歩く。

ユートピアの構造」

なるほど、ユートピアには健全で健康的で創造的でいきいきと楽しめる残業も休日出勤も低賃金もないすばらしい労働社会、労働制度が描かれているイメージはある。そして、それらは表裏一体のディストピアに容易にひっくり返る。というか、今どき、そういった「すばらしい労働社会」をユートピアとして描くことはできなくなっているように思える。古い思想家、社会主義者アナーキストでもよい、彼らの描く未来社会というものを、もうわれわれは夢見ることができない。その絶望は、たとえばAIやロボットというものの進歩によってシンギュラリティが起こる、といった半ば現実的な事柄(シンギュラリティがどうかはしらんが)においても適用されてしまう。われわれは「太陽国民」、「ユートピア国民」、「調和国民」になどなれはしない。まあ、このあたりはおれの戯言。

ひとつの社会は、その社会の実情とはまるで釣合いのとれぬかずかずの理想を、暗示してやるなり教えこんでやるなりしなければ、決して発展もせず確立されもしないのである。集団の生命を維持する上でユートピアの果たす役割は、民衆の生活の中で使命という理念の果たす役割にひとしい。イデオロギーは、救世主待望の幻影から、あるいはユートピアの幻影から生まれた副産物であり、いわばその普及版であろう。

 

一個のイデオロギーは、それ自体では良くも悪くもありはしない。一切はそのイデオロギーを採択する時機ににかかっている。一例がコミュニズムであって、これはある種の男性的な民族に対して刺激剤として働く。その民族を前へ押しやり、膨張、拡大を助ける。だが、よろめきだした民族には、その影響力はずっと小さいにちがいない。元来が真でも偽でもないコミュニズムは、運動の過程を速める役をするのである。

ユートピアの構造」

さあ果たしてわれわれの社会(と、おれが言うときは、この現代日本、ということになるのだろう)に、ユートピアはあるのだろうか。なにかもう、どこにも「理想」というものが見当たらなくなって久しいように思えてならない。今までの社会を維持できるかどうか、マイナスの穴をいくらか埋められるかどうか、そんな撤退戦の時代ではないだろうか。

たとえばおれひとりが心の中で大杉栄の描いた「各人が自由で、それでいて調和のとれた世界」というものをぼんやりと夢見たところで、それはもうイデオロギーにすらなっていない。コミュニズムの夢も破れて久しい。われわれにはなにが残されているのであろうか。歴史が終わったとはこのようなことを言うのであろうか。だとすれば、国際社会というものからも降りてしまって、あとは自国民をなんとか食わせるだけの機能を果たせばよい。だが、それが、それだけのことが実に難しいというのが、なんとも不可解であり、じつに苦しいことだと思わずにはいられない。人間は不相応に増えすぎてしまい、技術は不相応に発展しすぎてしまったのではないか。もう、これ以上、人間の数を増やして労苦を増やすのはやめよう。違うだろうか。

 

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