この「特設サイト」に自分のブログの名があった。
「はてなブログ編集部が選ぶ注目のブログ」紹介のキャッチフレーズはこうである。
言葉の刃を研ぎ続ける日記
やばい、かっこいい。
というか、おれはこんなかっこいいことを書いていたのか。
書いてしまっていたのか。
検索してみる。
ないじゃないか。
とすると、おれは見抜かれているのか。うわ、だせえ。
というのも、「言葉の刃を研ぎつづける」というのは、おれが文章を書く一つの目的のようなものだからだ。たぶん、どこかに書いていると思ったが、検索してみたらひっかからなかった。もしも書いていたのにひっかからなかったらはてなの不備だ。そうでなければ、はてなの慧眼だ。
それにしても、おれの鈍りに鈍った文章をもって、まだ「言葉の刃」と言ってくれるとなると、それはうれしいことだ。おれの文章はもっと若い頃のほうが鋭かったし、尖っていた。おれは言葉の刃を研ぐのをさぼっている。その自覚はある。
とはいえ、言葉の刃は研いでいたい。そう思う。そして、研いで研いで、キレッキレになった刃で誰を斬るのか、突き刺すのか。それはわからない。おれは、言葉で人を殺したい。物騒な物言いだが、そういう思いがある。言葉の刃を研ぐというのはそういうことだ。もちろん、その対象が自分自身ということもある。
おれは、言葉が短ければ短いほどいいと思う。寸鉄であるほうがいい。修飾もあまりいらない。高橋源一郎は、形容詞から文章は腐ると書いていた気がする。一撃だ。一撃で必殺だ。それ以外にない。
そのために、おれは刃を研ぐ。弾を込める。いつか、なにかを刺すときのために、研ぎつづける。そのときは来ないかもしれれないが、きっと来ると思っている。いつかの一殺のために、おれはひそかに言葉の刃を研ぎつづけている。
おれがやるといったらやる。
とはいえ、おれはやるといったことをやれない人間だ。
あんたはどう思うだろうか?