このごろ、太宰治を読んでいる。読み直しているのではない、読んでいるのだ。この間、はじめて「人間失格」を読んで、これはひとつ全集を読んでみようと思ったのだ。
して、ちくまの文庫の全集の第一巻で、おれは「道化の華」という作品が好きになった。好きになったあたりは、いろいろとあるのだが、こんなところがちょっと気になったので、すこしメモをしておきたい。この話は、心中未遂した主人公と、それを見舞う友人たちとの話である。心中未遂は太宰治自身の話に基づく。彼だけが生き残った。小動岬でな。
青年たちはいつでも本気に議論をしない。お互いに相手の神経へふれまいふれまいと最大限度の注意をしつつ、おのれの神経をも大切にかばっている。むだ侮りを受けたくないのである。しかも、ひとたび傷つけば、相手を殺すかおのれが死ぬるか、きっとそこまで思いつめる。だから、あらそいをいやがるのだ。彼等は、よい加減なごまかしの言葉を数多く知っている。否という一言をさえ、十色くらいにはなんなく使いわけて見せるだろう。議論をはじめる先から、もう妥協の瞳を交わしているのだ。そしておしまいに笑って握手しながら、腹のなかでお互いがともにこう呟く。低能め!
当時のインテリ学生たち、青年たちを太宰治が見て思ったことなのだろう。して、これを読んでおれはどう思ったのか。「人間、そういうところはあるよな」である。であるが、一方で、いまのインターネット上の「議論」ではありえないことだよな、と。
もう、いまのSNSの「議論」なんて、初手から「低能め!」からはじまっているでしょう。お互いに、自分の思想信条を明かしたうえで、「低能め!」と思う相手に食ってかかる。そういうもののようにおれには見える。そこには「妥協の瞳」なんてものはない。あるのはむき出しの「殺すか、死ぬか」だ。
もちろん、当たり前のことではある。「青年たち」は顔見知りどころか、友人関係でもあって、そこには人間関係が先にある。ところがネットときたら、そんなもの無し、関係性ゼロで「低能め!」と思える相手を探し回っている。そうでなければ、一緒になってだれかを、あるいは集団を「低能め!」と思える仲間を探している。
おれには、どちらがいいかわからないし、比べられるものかどうかもわからない。議論において、「妥協の瞳」があるべきなのかどうかわからない。かといって、最初から「低能め!」と食ってかかってなにか生まれるのかわからない。
しかし、いまでもインテリの階級は「本気に議論をしない」ところがあるのだろうか。あるのかな。高卒のおれにはわからない。あればいいように思うけれども、あったところでまどろっこしく感じるかもしれない。
とはいえ、「おのれの神経を大切にかばっている」ところは一緒なのかもしれない。「神経」というとなんだかわからないような気もするが、自分の核となるものは守りたいと誰しもが思うだろう。ある議論によって、その都度おのれの核を壊し、再生できる人間は強いだろうが、なかなかそうもいかないだろう。
となると、露悪的にすら見える現代のSNS議論も、実は「自分が傷つかないように」という防御のための攻撃なのかもしれない。そんなこともあるかしれない。正直、おれは議論というものをしないのでわからない。おれも傷つきたくないから、一方的に文章を垂れ流すだけだ。主張を垂れ流すだけだ。
じゃあ、おれは世の中の人を「低能め!」と思っているのかどうか。それは内緒ということにしておこう。