達人としての医師というものについて

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寄稿いたしました。

神田橋條治医師の講義録についての感想です。

お読みいただけたでしょうか?

読んだか、このやろう?

読んだということにする。

 

というわけで、神田橋條治である。そりゃねえぜ、という人もいるだろうし、あれはすごい人だという人もいるだろう。そのあたり、おれにはよくわからん。医師、とりわけ精神科の医師にとって神田橋はどのような存在なのか、よくわからん。よくわからんが、尊敬するという医師もいるし、本も出版されるくらいなのだから、それなりにすごいと見なされる人なのだろうと思う。

とはいえ、けっこう危ういな、というのは素人目に見てもわかる。その危うさというのは、神田橋医師本人の診療にあるというより、その考え方を書物で受け取って活かそうとするような場合の危うさだ

なんというのだろうか、たぶん、神田橋医師本人の診療は、平均的な医師のそれよりも、だいぶ強いものがあるのだろうと思う。あまり間違えないのだろうと思う。だが、それは「達人」のそれであって、下手に真似をしたら間違える。そのような感じだ。神田橋医師が気功やOリングテストをやるぶんには大きく間違わないだろうし、漢方薬の処方も、減薬も間違わないだろう。

だが、それはこの神田橋條治という医師の個の力によるところが大きい。そんなふうに想像する。「個の力」というのも、なんともいい難いところがあるが、なんらかのカリスマ性とか、そういうものではないか。それこそ、近代医学が生まれる以前の、シャーマン的な存在である医師に近いのではないかという、そんな印象だ。たぶん、この医師にはそういう存在感と能力があって、それで人を癒やすことができる。教育でどうにかなるようなものではない、特別ななにかがある。

特別ななにか? そんな非科学的なものがあるのか? あるのではないか。おれはそう思う。そうでなければ、人類の近代より前の歴史に医師的なものの存在はなかったのではなかろうか。呪術者的な、なにか。

とはいえ、神田橋條治という人の言うことは、べつに呪術者に振り切っているわけではない。現代医学の否定に突っ走っているわけでもない。そのあたりに、微妙なバランスを感じる。

 

たとえば、おれはこんな本も読んだ。この本の核をなすのは「ファントム」という概念だ。

正直、おれにはファントムがわからなかった。わからなかったが、神田橋條治なりに人間のこころというものを解析しようという意志が感じれられた。

 概念言語が登場し、さらに文字言語を手に入れることで、こころ、すなわち意識界は無限の自在性を獲得したように見えます。しかし、こころとはしょせん、脳という身体活動が生み出した結果にすぎません。脳が機能しないと、こころも機能しません。こころとは、うつろう影のようなもの、ファントムなのです。

 だけど再びしかし、現在のわたくしたちはファントムなのです。このお話をわたくしが本にして、皆さんが読んでくださるのは、ファントムとしてのわたしが、文字言語としてのファントムを用いて、ファントムとしての皆さんに、考えというファントムを伝えようとしているのです。決して、脳から脳へのコミュニケーションではないのです。わたくしたちがヒト独自のものと見なす文化はすべて、ファントムが生み出したものです。

ファントム。なにかくせになりそうな言葉だ。

ほかにも、自然治癒についてこんな表現があり、なるほどなどと思ってしまったが、どうだろうか。

 さて内因であれ外因であれ、いのちにひずみが引き起こされ、一定限度を超えると、生体恒常性が発動されます。その働きを三つに分けて考えるのが便利です。(1)因を除去する活動、(2)ひずみ修復の活動、(3)修復を助ける活動の三つです。

 哺乳動物にあっては(1)因を除去する活動は、内部に侵入した微生物に対する免疫活動から、別の場所に移動したり、住居環境をしつらえたりする活動の広がりがあります。さらにその活動が別種のからだのひずみを生み出して、新たな内因となったりします。

 (2)のひずみの修復の活動は、教義の生体恒常性であり、自然治癒力の核です。その典型は傷の治癒の過程です。

 (3)としては、動物がうちなる自然治癒力の活動を助けるべく、状況を設定する活動があります。その中心となるのは環境の整備と退行であり、ともに生体の活動域を縮小して、生体恒常性の営みに専念できるように務めることです。典型はいわゆる「元気がない状態」です。活動域を縮小することで、生体恒常性の機能を保護するのです。

そして、医療というものの薬物や手術などは、そとから生体に加えられる歪みなので、必ず外因になるという。有益であれ、無益であれ、かならず有害な作用をもたらす。治療者は、その歪みを推察せよという。

これなど、風邪薬を処方されて、それを飲んで治っただの、治らんだの言う患者の側からはあまり想像できないことである。とはいえ、おれのような精神障害者抗精神病薬を処方されたら、少しは想像できる話でもある。

そんなところで、なんだ、なんの話だったか。神田橋條治医師の話だったか。ともかく、なにかしら特殊な医師というものはいるものであって、それがうまく作用している場合には名医と呼ばれるのだろう。とはいえ、一歩間違うと、なにかえらい間違いになるのかもしれない。

正直、神田橋條治という医師について、おれはよくわかっていない。一方で名医と言われるのだろうと思うし、一方で呪い師のように考えられているのかもしれない。そのあたりについて、現役の医師の言葉などを聞きたいとも思うが、まあいい。おれにはおれの病があって、おれにはおれの主治医がいる。幸いにしておれはおれの主治医を信頼しているので、処方される薬にも信頼を置いている。とりあえずのところ、それでいい。

それでもなお、人間のこころというもの、こころの病というものについて、興味は尽きないのだが。