『悪魔礼拝』種村季弘 その2

ASIN:4309402143
http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20060112#p1

■恥辱の接吻

乱交、近親相姦、動物変身、嬰児供犧、恥辱の接吻、ソドミー―十一、二、三世紀のサバトの悪魔礼拝を構成していたこれらの要素は、おどろくべきことに、数世紀を経て魔女時代の終焉を飾った十七世紀にいたってもほとんど何一つ変わっていない。

 忘れてはならないのは、サバトに参会していたこれらの民衆はサバトの夜以外の日々は単調で苛酷な労働の鎖にきびしく縛められていたという事実である。サバトは貴族の放蕩ではなかった。

 悪魔儀式のサバト、これが保守的であったのは、教会の鏡像であるがゆえに保守的なのである。参加者は貧しい農民。近代的な個人主義的道徳がどこにも存在していない時代にあって、これら行動は個人的快楽とは別個の「洗身」であり「浄化」、「解脱」であった。しかし、その方向はキリスト教的昇華ではなく、「動物的無感覚(アパシー)の闇に向かって下降=没入した」というわけだ。「恥辱の接吻」は肛門への接吻のことで、これも価値の転倒が目に見える一例か。

■太陽と黒ミサ

 サバトはその開催地を、田園の夜の森や広野から人工的に外界から遮断された修道院や大都会の密室へと移行させていく。…(中略)…黒ミサはこれまでになく洗練されたが、同時に土臭い粗野な共同体儀式であることを放棄せざるをえなかったのである。

 十五、十六、十七と世紀を経るにしたがって、悪魔礼拝の姿も変わってくる。それは共同社会(ゲマインシャフト)から利害社会(ゲゼルシャフト)への転換に対応するもの。「都市」、「資本」の誕生だ。悪魔の敵は教会や宗教から、法廷や警察に。そして悪魔は、闇の場を失って次のところに行き着くという。

 ついには最後の隠れ処を個人の密室における人工の闇である虚構(小説=ジャーナリズム)のなかに発見するであろう。

■悪魔の世俗化

一言にしていうなら、ブルジョア社会は中世の個別的地方的なサバトを絶滅せしめたが、まさにその瞬間から、ブルジョア社会そのものが一個の巨大なサバトと化したのである。

 古代や中世にあってはかならずしも人格的存在ではなかった悪魔、キリスト教的神学によって客観化されたピトレスク(絵に描いたような)でいて、それゆえに人間の自我を襲うことはなかった悪魔。それらが人格化され、最後には自分自身の内部、心にすら発見されるようになる。「十八世紀にいたって悪魔はいちじるしく人工的(アーティフィシャル)になったのだ」。そして、その悪魔が顔を出す虚構の一つが、推理小説だというのだ。なるほど、推理小説の殺人者はだいたい犯人じゃなさそうな顔をしているものだものな。それに、犯人の内面に重点が置かれるようなタイプのやつも、まさに悪魔の内面化みたいなものだろう。いやはや、推理小説や探偵小説をそういう風に見ることができるとは驚きであった。

つづく