あんたはおれなのか? 辻潤『絶望の書/ですぺら』を読む

 

絶望の書・ですペら (講談社文芸文庫)

絶望の書・ですペら (講談社文芸文庫)

 

 人間がイヤイヤ自分の仕事をしているということより悪いことはまずこの世の中にはありそうもないことだ。況や、単に食わんがためにイヤイヤ仕事をしなければならないなぞということは考えてみても馬鹿馬鹿しい話だ。

「にひるの漚」

読書というものは、自分以外の人間の思想や感覚を追体験し、自らの視野を広げるというような部分もある。一方で、あまりにも著者とシンクロしすぎて、「おまえはおれか?」という気分になってしまうときもある。おれにとって辻潤とはそのような人のように思えてならない。

しかし、生きている間はまたなんとかよきことが湧いてくるかもしれないという妄想を断ち切れず、あさましき醜骸を曳きずって歩いているのであるが、よくも自殺をしないものだと不思議に感じているのである。人間は与えられた定命がつきるまでは生活苦に喘いで生きるものと、覚悟はしているものの時折ははまったく身も世もあらぬ心持ちがするのである。親鸞の「地獄一定」の思想がしみじみと深く刻まれる。現世には「なんの救いもない」という現実が、最後に与えられたせめてもの慰めである。

「まだ生きている」

辻潤、というと「ああ、伊藤野枝の」というのがおおかたの人の反応だろうし(そのおおかたが日本人の何割かは知らぬ)、おれもそのように思っていた。大杉栄やその仲間たち、あるいはギロチン社や石川三四郎権藤成卿なんかとも違う(まあ権藤成卿権藤成卿で違うが)、なんだかよくわからないが「伊藤野枝の」の人というイメージだ。ところが実際に彼の書いたものにあたってみたらどうだろう。先に挙げたどの人物よりも、自分に近かった。ニヒリスト、ダダイスト、呼び方はなんでもよい。ともかく、この人はすげえ、すげえおれに似ている、そう思わずにはいられなかった。

人生そのものに酔っていられるなら、なにもわざわざ酒や阿片の御厄介にならなくてすみそうなものだ。夢死が出来れば死の恐怖に襲われる憂いもあるまい。

「浮浪漫語」

なにもしたくない、なにものにもなりたくない。そういう意思が溢れ出ている。いや、そう見せているだけかもしれない。しかし、人は彼をして「なにもしたくなかったやつ」と言っても間違いはないだろう。

 自分は自分の生まれたこの美しい郷土が次第に荒廃に瀕してゆくのを見ると、たまらなく変な気持ちにさせられる。そして、その気持を次第に嵩じさせてゆくと、ヤケ気味になって、どうせ壊れかかっているものなら、イッソ綺麗サッパリ一掃して、ほんとうに僕らの気持ちにピッタリ合う美しい生まれかわったような日本にしたいとしみじみと感じるのである。しかしそんなことがいつ出来るものか、自分にはハッキリした確信を持ちかねる。

「価値の転倒」

とはいえ、こんなふうに日本を見ているあたりも、なにやら同意できてしまってしかたない。「僕はソシャリストでもアナーキストでもないが、今のような為政者の手に弄ばれるステートなどというものは問題にならない位不愉快極まるものだ」というあたりもそうだ。完全な世捨て人ではない、辻潤。社会運動に参加していたとも言われる辻潤。とはいえ、虐殺されもせず、テロを起こすでもなく、淡々と餓死した、その行動に胸打たれるではないか。おれには古田大次郎の高潔さもなければ、大杉栄の胆力もないが、ただ本当にのたれ死んだ辻潤はすげえな、と思うし、おれもどちらかといえばそういうやつだろうと思う。

 一切の価値はただ自己が創造するのみだ。自分以外に価値を見出す者は自分以外に権威を認めるものだ。他人の評価を持たなければ自己の価値を解らないような人間は自己の所有者ではない。

「価値の転倒」

 人は誰でもめいめいの人生観を持っている、意識的にあるいは無意識的に。持たなければならないものではないが、みんな自然に持っている。

人生はただ一ツ、それを見る眼は千差万別だ。そこで色々様々な人生がその色眼鏡に反映する。

 各人が各自の人生の中に生きている。そして各自は他人の色眼鏡に反映に相互に影響され合う。時代によって色眼鏡の全体の色彩がちがってくる。色の配合と混合は絶えず移り変わっている。

 「ですぺら

この個人主義、それでいて個々人の自由を極限まで認めるような思想をなんというのだろうか。アナーキズムかもしれないし、ニヒリズムかもしれない。あるいはダダイズムというのかもしれないが、おれはその言葉をよく知らない。辻潤イズムといってしまっては当人も嫌がるだろうか。

 人間はこの世に生きている限りは、お互いに出来るだけ享楽をしなければならない。享楽のないことには決して幸福はあり得ない。幸福とはつまり、人間が相互におのおのが好むまま、欲するがままにこの生を享楽することが出来る状態に名づけられた言葉である。

「享楽の意義」

あるいは、享楽主義? しかし、当人は世間の基準、とりわけ富の基準から見ると、享楽とは遠いところにいるように思える。

 無数の人間の中には幸運に恵まれて一生を過ごす者も多分いるに違いない。健康とすぐれた才能と、美貌などにめぐまれてなんの不幸にも出会わず、無事に天寿を全うして死ぬ人間が多分いるに違いない。そういう人達は恐らく、幾度でもこの地上に生を享けたいと思うであろう。しかし、そのような幸運に恵まれる人はきわめて少ない。あるいはそのような人間は地上にひとりもいないかもしれない。少なくとも自分の場合だけを考えてみても、私はいかなる条件を与えられても、二度とこの地上に生まれてきたいとは思わない。

「痴人の手帖」

こうとも言い切っている。ここまで言い切るのは相当な覚悟のようなものがいるように思える。来世というものがあったとして、次は幸福に恵まれたいというような願いをぶった切っているからだ。おれのようなものでも、来世というものがあれば恵まれた人類として生まれてきたいとは思う。もっとも、輪廻というものを信じるかはまた別の話だけれども。

また、エックハルトの五種の貧乏、というのを紹介している。

 1物質的にも精神的にも、いくらほしいと思っても手が届かない。これを魔的貧者と名づける。

 2、財産を山のように積んで、その中へ空手で自由自在に出入りする。自分の財産が全部焼けても平然としている。これを黄金的貧者と名づける。天国行きの人である。

 3、財産も名誉も命もいらぬという人。自分を棄てた人ではあるが、他人のためにはいろいろと心配する。歓喜にみちた貧乏人。これを喜びの貧者という。

 4、霊的貧者。この人には友だちも親類もいない。財産や、名誉や、身命などはもちrんとうの昔に棄てている。善根功徳を積む心さえない。「永遠の道」をしてそのなすがままに任せる。自分は手を束ねた無為の行者である。「道」には善も悪もないから、その人は徹底的に空々だ。

 5、この日tの心の中へは神でさえも、その働きを加うべき余地を見出し得ない。浄裸々である。すべての人はこの人にあってほんとうの人間になれる。この人を「キリスト」というこの人は天地を平等に見ている。まったく地上の人ではない。時空を超越してなにものにも囚われれない。これを神的貧者という(鈴木大悟氏の訳文による)。

「続水島流吉の覚書」

さて……鈴木大悟ってだれだろう。エックハルトの訳文となると「鈴木大拙」じゃあないかと思わずにはいられないが、まあそのあたりは調べるのも面倒だし、放っておく。この五種類の貧乏人のうち、辻潤はどれになりたいと述べたのか。

 第二種の貧乏人になりたいが、あいにく自分には財産がない、せめて第四の貧者にでもなりたいものだ。

いいじゃあないか、これ。金があったならあったでいい、あったほうがいい。でもねえからしかたないんだ。そこがいい。第二種になりたいと素直に出てくるところがいい。そして、「キリスト」になりたいとも言わんところがいい。そして、再度言うが、この辻潤は戦時、戦後という苦しい時期だったとはいえ、餓死しているのである。自らの思想、ないしは感性に従って、決してないわけではなかった人脈に頼るでも、文才や翻訳の才能(スティルネルの『唯一者とその所有』を訳している)に頼るでもなく、なんにもせんと死んだのだ。かっこいいじゃねえか。おれはそう思わずにはいらない。そして、おれもかっこよくありてえなと思うのである。無論、おれには人脈も外国語を翻訳することも、「小説でも書いてみてはどうか」という文才もありゃしない。それでも、なにかこの辻潤に似た魂の持ち主として、その死に様に憧れるのは否定出来ないのである。