ワインを飲むために必要なこと

 昨日、私がワインを嗜む旨について記したが、肝心なことを書き忘れていました。そう、ワインのコルクを抜く、という行為です。最近はコルクを用いない物もの出回っているようですが、やはりコルク栓こそワインの醍醐味とは言えないでしょうか。
 私がコルク栓を開けるのに用いるのは、ダイソーという店で購入した十徳ナイフに付属するコルク抜きです。「そんなもので大丈夫なのか?」と言う人もいるでしょうが、今までに一本開けたという実績があるのです。それに、昨日記したワインと同じ銘柄なので、よもや失敗はあるまいと思ったものです。
 ところが、お酒の神様も気まぐれなもので、コルクにスクリューをねじ込んだ後、ピクリとも動かなくなりました。瓶をさまざまな方法で固定し、腕よちぎれよとばかりに力を入れたところで、まったコルクが動く気配はない。こんなときはどうするべきだと思いますか?力任せに事を運んではいけないのです。必要なのは知恵なのです。
 そこで私は、「コルクは燃えそうだ」という点に着目し、ライターで火を付けて見ました。すると、コルクも焦げるのですが、刺さったままの十徳ナイフの柄が溶け始めました。案外これは効果がなさそうで、いやな臭いがしてきました。さて、どうしたものでしょう。
 ここで、「如何にコルクを抜くか」と考えてばかりいては前に進めません。一歩下がり、大局的な視点から物事を見ることが肝要なのです。私の目的は瓶の中のワインを飲むこと。別にコルクを抜くことが目的ではないのです。そこで私は、こう考えたのです、「瓶の先端を割ってしまえばいいじゃないか」と。ということで、ワインの瓶を流し台に持っていき、先端部分をステンレスのへりに打ちつけました。ところが、どうも流し台の方が参ってしまいそうなあんばいです。そこで、木刀を持ちだして、さらに力いっぱいの打擲を加えてみたのですが、瓶はビクともしません。
 そう、その時です。私は父の話を思い出したのです。それは、以下のようなものでした。

 昔、酒場で飲んでいたら、にわかに店内で喧嘩が始まった。店の中は静まりかえって当事者に注目する。すると、ヤクザ風情の男が、ビール瓶を割って凶器にしようと、カウンターに思い切り打ちつけた。ところが、ビール瓶は中身が入っているもので、ビクともしない。それどころか、逆にヤクザ者は反動で手首にダメージを負い、一人で痛がり出した。店内には実に気まずい空気が流れた。

 ……なんということでしょう。人生の先達である父の言葉を思い出しておけば、無駄な手順は省けたのです。しかし、「父の言葉を思い出す」ということから、私はまた一つのエピソードを思い出したのです。名作『ジョジョの奇妙な冒険』からの一節です。息のできない水中で危機に陥ったジョセフ・ジョースター。そんなとき、彼は子どもの頃のエピソードを思い出します。犬のダニーがくわえたボールを放さないことに困っていると、ジョジョの父はこうアドバイスしたのです。「ボールなんていらないよ、あげちゃえばいいんだと思えばいいんだ」と。
 私は実の父よりジョセフの父に感謝したい気持ちでいっぱいです。コルクを引き抜こうとしたしたからいけないんだ。逆に押し込んでみればいい。というわけで、私はスクリューを抜くと、今度はナイフをコルクに突き立て、あらん限りの力で押し込んだのです。すると、じわりじわりと動き始めたコルクは、飛沫を上げて瓶の中に沈んだではありませんか。これにより、ワインが私の口へと運ばれる運河が開通したのです。
 古く神話の時代の神々より愛されてきたワイン。その神秘の酒を手に入れるために人々が重ねてきた苦悩、そしてそれを口にする快楽。その歴史の奥深さが、透き通ったワイン・グラスに凝縮されていると言ったら大袈裟でしょうか。では皆さま、A votre sante!