続コロンバイン

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070417-00000852-reu-int

バージニア州ブラックスバーグバージニア工科大学で16日発生した乱射事件では、殺された32人のうちの多くが授業中の学生だった。米近代史上最悪の銃撃事件とみられているが、犯人の男は犯行後、銃で自殺した。

 マイケル・ムーアのことを好きな人も嫌いな人もいるだろうが、一般的な日本人の感覚として、彼の銃規制の主張自体には賛成する方が多いのではないだろうか。たとえば、どっかしら頭の中の化学物質のバランスが狂ってしまった人間がいたとして、彼が人殺ししようとして手元に包丁しかないのと、銃器があるのでは、その結果が大違いなのは明白だ。どんな腕利きの板前でも、32人も殺せないぞ。板前は人をさばく職業ではありません。
 しかし、それでもアメリカ合衆国は銃を大切にする。これが国の文化や歴史というものであって、よその国から見た合理性で割り切れるものではないのだろう。
 とはいえ、別の意味で合理性が足りない。理屈がおかしいと思えることがある。身を守るために銃の所持オーケーならば、犯人がいくらか無辜の学生を殺せようとも、学生たちがおのおのの銃で一斉に犯人を撃って、犯人蜂の巣にしてしかるべきではないのか。それがアメリカの理屈じゃないのか。一方で頭のねじの外れた人間が銃を手にできる自由があって、こちらに身を守る自由があるというのに、善良なアメリカの学生や教師は銃を持ち歩いていないし、とっさに撃つ訓練をしていないのかもしれない。よくそんなんで生きていられるな。不安じゃないのか。もしも俺だったら怖くて怖くてしょうがないぞ。ポケットにワルサーPPK、肩からP-90、背中にモーゼル・ミリタリーで暮らすぞ(たぶんP-90は規制されてると思う)。その上に防弾チョッキ着て暮らすぞ。「学校に銃を持ってくるのはやめましょう」みたいな校則があって、それで安心できるのか? 俺にはわからん。想像を超えている。たしかにナイフや包丁や金属バット、あるいは自動車やバイクだって人殺しの道具になる。けど、銃のそれとは量が違う。質が違うかどうか論じるのはいろいろあるかもしれん。だが、量が、危険の量が違う。違うか? もしも、銃の所持を認めようという人の数と、銃の所持は認めるけど持ちたくない人と、銃の所持を認めないし持ちたくない人の間でバランスが崩れているなら、なにかとりかえしのつかないほど不幸なことだ。余計すぎるお世話に過ぎないが。熱があるのでようわからん。言葉もジャムる。このへんで。