三十歳のおっさんにして学びたい

今朝ぼんやり考えた


 眠りからさめて、ベッドの中で俺はこんなことを考えた。
「……そういや、持ち家か借家かみてえな話があるけど、まあ俺はこの家賃五万円のワンルームアパートで一生過ごしてもいいんだけれども、しかしなんだ、そもそもどっかに住んで生きるだけでショバ代とられるってのはどうなんだよ。こっちは生まれる前に<ショバ代払います>って契約書にハンコ押したわけでもねえし、生まれただけで借金苦じゃねえのか。
 だからなんだ、住む場所くらい、この五十何億分の一として、生まれた瞬間に分譲されてていいんじゃねえのか? 
 でもだ、なんだかわからんが、この世はそうなっていないわけであって、おそらく、上のようなことを考えた奴だっているだろうけれども、やっぱりそっちよりこっちの方が、なんだかんだいって社会が回っていくようになってんだろうな。そこんところの、土地の私有とかなんだとか、まあいろいろの歴史があるんだろうな。
 ……しかし、そもそも、土地に限らず、こっちはなんというか生まれてきたところで負債や義務があるといわれても、どうもなんだかわかんねーが、なんか知らねーし、父母未生以前(時間的な意味で)からの法律とかも、やっぱり生まれる前に宣誓書にサインしたわけでもねーし……。でも、それを言い出したら、まあきりがねえし、なんちゅうか、人間社会も、何かのためのシステムでなしに、それ自体がそれを目的とするような、超システムだとかいうんだっけ。そうすると、人間それ自体も何かのためのシステムでもないし、また、人間の依拠する社会も人間のためのシステムではないとか、そういうことかもしれない。
 そんでも、だからといって、なんかわからんが、なんかそうであっても、実はそうじゃないんじゃないのか、みたいなところを、こう、なんか刻みつけようというか、そう齟齬というか、ずれというか、そういうなんかの摩擦から、たとえば文化とか、宗教とか、あるいは文明とかまで生まれたのかもしれないな……」

俺は知らないことが多すぎる

 しかし、上みたいに考えたところで、「なんか」とか「こっち」とか「そこ」んところに入る言葉を知らねー、単語を知らねー。「とか」の範囲もわかんねーし、自分が打った単語の意味も深く説明できねー。要するに、知識がたりねー。歴史も法も社会も生命もぜんぜんわかんねー。なんかちょっとは知りてー。
 つーか、俺、はっきり言って、勉強したいわ。勉強だよ。仕事したくねーってのは本音で、好きなことして暮らしてーって思うのも本音で、その「好きなこと」に「勉強」が入ってるじゃん。これはすげー。俺は生まれてこの方、こんな気持ちになったことはなかった。なんか勉強して生きてればいいような身分ってねーの? 学び、生きる、学生……。
 ……あー、そうなんだな、あんまり直視するのが嫌だったんだな。俺が能動的に、消極的に捨てさった、大学教育ってやつへの、「ああ、捨てない方がよかった」という後悔をしたくねーという、そういうところからの逃避だな。

でも、耕してねー土地に芽吹きはねえよ


 けどさー、たとえば俺がさー、十年前くらいの俺に会いにいって、「お前はのちのちお前が社会や法や芸術や科学、文学、都市、環境、自然、宇宙、仏教、エロ、グロ、革命、その他いろいろものに興味を持ったとき、お前が芯となる知識を持っていないのは面白くねーから、お前は勉強しろ、大学を辞めるな」とかいったって無駄だと思うし、当時なんらかの人間づきあいからそういう真摯なアドバイスを受けたところで、それは意味ねーと思うの。これは逃避じゃなくて、そう思う。
 だってさ、それってたぶん、学校教育、受験勉強その他のさ、「勉強しろ」と、何一つ変わらないんだよ。十年前に行った今の俺は「受験勉強しろ」とは言ってなくてもさ、聞く方の十年前の俺が今の俺じゃねえから、そこに「勉強したい」なんて意欲はないわけよ。皆無。大井、川崎、川崎、大井。テーケーレディーやサントス、クリオネーの走る競馬場が呼んでるんだよ。しかし、昨日のナッシュには驚いたなーって。ソーニャドールとの相性もそんなに続かねーって。
 なんつーか、『足もとの自然からはじめよう』じゃねえけど、いや、そういうもんなんだよ。俺は俺が疑問に思うこと、知りたいと思うことに気づいて、はじめてそのために知識を得たいと、情報を食いたいと思うわけじゃん。

俺の中で学びのイメージってこんなん


 しかしなんだ、学ぶってなんだ? ……うーん、なんかこう、もう、岩だらけで、ぐちゃぐちゃの荒れ地というか、荒れ地と名前のついていないような荒野がある。いや、もう真っ暗で、なんにもねえの。
 でも、ある日、なんかちょっと気づく、なんかあるぞって。疑問に思ったり、気になったりする。それは、生活の中のことでも、夢でも、本でもなんでもいいけど、なんか入ってきて、「あれ?」とか思って、まあちょっと光がさして、なんか疑問に思ったりする。すごく曖昧だったり、「ヘイトスピーチ」とか、なんか具体的もいいし、そんなんで、とりあえず、岩とかは取りのぞかれて、まあまず軽く平らにはなる。耕作地の前段階ぐらいにはなる。
 でもって、まあ、生きていたら、そんな耕作予定地みてえなのが何面も作られる。積極的に耕そうと思わないかぎり、放っておかれる。
 で、なんかそこに、種になるような考え方とか、筋道、かしこい誰かの考えた、疑問に対する回答、回答の仕方みたいなのが落ちてくることがある。「あれ、これ育てられるか?」みてえになる。
 そんで、まあ自分なりにそれに対して土壌を整備して、水や肥料やって、間引きしたりして、育てていこうかというのが、勉強じゃねえかと。学びじゃねえかと。水とか肥料が教科書であったり、講義であったり、議論であったり、まあいろいろの経験とか、あるいは直観かもしれねえけれども、そんで、まあ、なんか一本の樹みてえになる。
 で、かしこいやつは樹をいっぱい持ってて森みたいになってるし、うまい具合の林道とかできるかもしれねえし、一本うまく育てた経験から、新しい樹種についても類推でうまくやれる可能性もある。こっちの種をあっちの耕作地で育ててもいいんじゃねえかとか思ったりする。あるいは、ひこばえとかも、ちょっとそのままにしておこうとか、ちょん切って挿し木にしてみようとか、そういうのもできる。そんなんが、かしこいやつだと思う。あるいは、もう、すげえ一本のすげえ巨木育てたりすんのもいい。それもすげえ。

で、話は戻るけれども


 でさ、たぶん、けどさ、この社会が要求する人間の成長はさ、自然に耕作候補地ができて、そこに偶然種が飛んできて……みてえなのは待てないの。少なくとも、今の世は待っていられなくて、人間の数も多すぎるし、成熟も早いし、一人の人間がいろいろできることも多い。あんまり社会ルール知らねーとかいう人ばかりになったらなんかいろいろ大変だし、労働力にもしなきゃいけねー。
 というわけで、やっぱり社会が要求する人間ってのを、効率的に、均一的に生産しなきゃいけねえから、「はい、ここが耕作地ですよ」って一斉に整地してさ、「はい、この種」って埋めて、ばんばん肥料と水やって、促成栽培するわけじゃん。それがまあ、たぶん、学校教育なんだよ、たぶん。
 そんでさ、中にはそのなかから、「俺はこの耕作地に生えた樹が好きだな」とか言って、てめえの選んだ領分として、なんかたとえば国語だろうと音楽だろうと体育だろうといいけど、育てていって、まあそうなるわけじゃん。
 でもさ、俺みてえなのはさ、それなりになんというか、陽当たり? 立地? なんかわかんねーけど、そこそこ勉強は苦にしない(算数以外!)分、こう、化学肥料とかでも、知らんうちにひょろひょろと育ててって、まあ高さ的になんか足りてるけど、幹の太さが足りねーっていうか、スカスカっていうか、そんなもんよ。でもって、なんかもう別にいーやってさ。
 だからさ、あの本で述べられていた通りでさ、

ひとつの大問題として「早すぎる抽象化」がある。私たちはあまりに早くから、抽象的な事柄を教えてしまう。

 この、抽象的っつー整地、種まき、栽培とかからじゃ、少なくとも俺は、なんというか、うまいぐあいに、その耕地を愛したり、あるいはほかの耕地を探せるようになったり、なんつーか、そういうことはできなかったんだよ。

三十にして目覚めたところで


 で、ようやく、おそらく、かしこい人たちが、すごく小さいころ気づいたり、あるいは高校や大学とか、進路とか人生と向き合うころに知ったであろうそれ、それ、すなわち、簡単にいえば向学心? 知的探求心? 成長したいとか、伸びたいとか、ともかく、そいつが「おもしれー」って思えて、なおかつ、それがなんか、まあ世間から見てそれほど無意義でもなく、「えらい」とか「かしこい」とか「すごい」とか、肯定的にとらえられることの、比較的多い、まあ勉強的なそういったものに、このわたくし、ようやく三十にして、ようやく三十にして、まあその対象があまりにも曖昧で多岐に渡り、それこそ小中高の味見段階で決めとけよって話なんだけれども、まあ三十にして、なんか勉強してえって、そう思えてきたのであります。
 でもよ、どーすんだよ? なんかたとえば、「三十にしてガリガリ君の美味さに目覚めた」とかいうなら、まあ安いし、好きなだけガリガリ君食って、電気グルーヴポカスカジャンのCDでも聴いてりゃいいんだけれども(もっと深いものかもしれないけれども、俺はガリガリ君マニアではないのでようわからんです)、勉強ってなんだ? どうすりゃいいの? 
 でさ、学校とかで学びなおすってのは何歳からでもできることっていうけどさ、でも、現実には、なかなかできねーっつうか、はっきりいって、少なくとも、俺は無理。つーか、だいたい、まあ、三十のおっさんになって多少はマシになってきたかもしれねえけど、それでも俺、やっぱり、若い人間とか嫌いだし(若者嫌いは俺が物心ついたときからはじまって、自分が若者であったときも継続し、今も変わらず)、いや、ちょっと待て、そもそもだいたい人間の集団とか、人間が苦手じゃん。つーか、それ以前に暇も金もねーじゃん。圧倒的にそれじゃん。
 つーか、まあ、なんかわからんが、ひょっとしたら、人間、こんなふうに学びたくなるのって、学校出て社会に出てから幾星霜ってくらいのもんじゃねえの? なんかもう、大学の入学を28歳くらいからにして、高校卒業したらいったんみんな働いたらどうよ? え、別にそんなんしなくても、社会回ってる? 回ってなかったの俺だけか。
 あー、まあ、ともかく、だったらまあ、なんつーか、適当に本でも読んで、適当に妄想して、夢を見て(眠ってるときに見るやつです)、よろしくやっていくしかないか。まあ、なんというか、それなりに生の声的なものも、いろいろネットから拾える時代だ。本とネット、種が飛んできて、養分もくれて、まあ独学独歩、愚地独歩国木田独歩、よろしくやっていこうっと。つーか、俺、まだよちよち歩きの処女地みてえな、こう、黄金の沃野なんだよ、たぶん。ひょっとしたら、なんかもう、野球とか競馬とかの知識で空き容量ねえかもしれねえけど、まあいいや、そう思っておこう、俺はゴールドヘッドだったんだ、やったー!

関連______________________