goldheadさん、秋の一都四県195kmクロスバイク日帰りの旅をする。

goldheadさん、北上する

 日光街道は江戸時代にもうけられた五街道の一つで、日本橋から日光東照宮に至る道である。現在も、国道4号線と国道119号線の一部の通称として用いられている。道中には旧道の歴史を感じさせる風物などはとくに見られず、延々と郊外型大型店、車屋、ラブホテルが連なっている。

 2009年11月3日。この道を北上する一人の男がいた。goldheadさんである。goldheadさんは愛車のGiant Escape R2をくるくる回しながら、ただひたすらにこの道、日光街道を北上していた。いったい何がこの男を、はるか北へといざなったのであろうか。

埼玉へ!

 そもそもの思いつきは、東京の地図を手に入れたことにあった。東京の文庫版都市図を手にしたgoldheadさんは、東京の隅々まで回ろうなどと思う前に、縦断して埼玉県の底にタッチして、帰ってこようと考えたのである。鎌倉育ち、横浜市中区在住の、根っからの出不精の彼にとって、東京ですら遠方である。その上、埼玉となれば、はるか彼方の感があった。だが、今の自分には、己の脚力と自転車を頼りに、そこに辿り着くことができる……、そのような想念が、彼を捉えたのである。



 が、東京はあまり薄っぺらかった。国道15号線、通称第一京浜の平坦な道を駆け上がれば、一気に日本橋に辿り着く。そして、さらに北上すれば、すぐに埼玉に突き抜けてしまったのである。彼は、あてをなくしてしまったのだった。ただ、足立ナンバーの運転に気をつけつつ、ペダルを漕ぐしかなかったのだ。

 憧れの地、埼玉。そこにも、彼を満足させるものはなかった。入口である草加市にはなにもなかったのだ。草加せんべい売りの活気にあふれている、どこかの宿場町のようにイメージしていたそこは、とくに神奈川でも珍しくないような、単なる……国道沿いであった。

 勝手な期待にすこし裏切られたような気になったgoldheadさんが、次によすがとしたのは「春日部」の三文字であった。漫画『クレヨンしんちゃん』の舞台となった春日部市である。彼も「クレしん」を読み、また、アニメを見た人間であり、その作者の悲劇の死をそっと悲しみもした。「春日部に行くか」、目的を取り戻した彼は、またペダルをくるくる回したのである。


 だが、春日部もまた、相も変わらぬ埼玉であった。草加に比べれば田舎風の度合いは強まってきたが、やはり、どこにもクレヨンしんちゃんの気配がない。そこで彼は、もうひとつの「春日部」を自分の中から取りだすことにした。「春日部共栄高校」。中里篤の母校、春日部共栄である。彼は偶然、中里篤と坂元弥太郎の投げ合いを見て以来、埼玉県勢ではどこか春日部共栄をひいきにするところがあった。が、彼は地図中からその所在地を探し当てることはできなかったのである。それもいたしかたのないことであった。春日部共栄は彼の北上する日光街道とは道を異にする16号線沿いにあり、また、彼がたよりにする昭文社の文庫判都市図に記載もなかったのである。

北へ!

 埼玉は、goldheadさんを裏切り続けたともいえる。が、彼はまだペダルを漕ぐことをやめなかった。なぜだろうか。彼はこう語る。
「……まっすぐな4号線の先にね、雲が見えたんだ。真っ青な空のね、まっすぐな道の向こうにね、真っ白な雲が。それで、なにかこう、山があるような気がしたんだ、雲の方に。はるかな関東平野の行き止まりというのかな。僕にとってそれはね、もう、この世ではないんだ。世界の果て、ワールドエンドみたいな気がして……、こう、チベットというか、天上の世界というか、須弥山というか、そんな山があるように思った。そこでは、日常をはなれた、それでもやはり、なにか街のようなものがあって、いろいろの人が集まっているんだろうって。この道を一直線に行く、足立の、春日部の、大宮の車も、みなあそこを目指しているんだろうって、そう思えてきたんだ。もう、僕は、そこに向かって、くるくるペダルを漕ぐことに、なんというのかな、法悦といったら大げさだけれども、よろこびを感じていたんだろうね」
 そう、goldheadさんは、異様な恍惚に取りつかれて、ただ北を目指していたのである。彼の目的地、世界の果て、べつの言葉で表現すればこうなるだろう、浄土ヶ浜、と。
 しかし、かれはそのような恍惚に耽溺する人間である一方で、ひじょうに臆病な人間だった。心はよろこびながらも、目と脳はサイクルコンピュータの数字を、腕時計の指ししめす時刻を、しっかりと追っていたのである。彼は75km―2倍にすれば彼の今までの最長運行記録になる―を超えたあたりから、引き際、引き返し地点を考えてはじめた。
「そりゃあもちろん、帰れないのは嫌だからね。この日は、輪行袋も持ってなかったしさ。俺は、自分の限界をつねに設定して、そこで立ち止まるタイプなんだ。いや、限界まで近づかないで、後ろ向いてどっか行ってしまうというのかな?」

県境へ!

 一心不乱に北上を続けていたgoldheadさん、だが、ついには理性が上回った。ただ、その場ですぐに引き返すのも面白くないとも感じた。このままでは、帰って150kmである。これでは、せっかくここまで来た意味もない。そこで彼は、標識にある「古河」の方へむかって、あと1時間漕ごうと考えた。平均20km/hで、約95kmとなる。そこから引き返せば200kmの大台が見えてくる。
 が、それはあまり気乗りのしない考えでもあった。後ろから、ゴムひもでひっぱられたまま走るような、そんな気さえしてきたのである。そんな彼は、べつの目的地はないかと地図を見て、面白そうな交差点名を発見したのである……境県道入口。
「見た瞬間、というか、今もだけれど、‘県境だ!’ってね、そんな風に思えてね。それで、4号線から逸れていく道を追ったら、千葉県との県境がある。さらには、そのすぐ近くに茨城県の名前まであるじゃないか。そう、それに、利根川だぜ。もう、僕はたまらなくなったんだ」
 goldheadさんは、新たな目的地を得たのである。県境へ、利根川へ。そして、この道はまた新たなるよろこびを彼にもたらした。彼以外に車や人の気配もなく、そらはただひたすらに青く、雲は白く浮かび、一面の田んぼ、関東平野! こんな場所に来てしまってよかったのか。ここはなにかの幻ではないのか。彼はそのような、怖いまでの光景に圧倒された。そして、ただ県境に向かったのである。

県境の世界



 世界に果てがあるのかどうかはわからない。が、県には境がある。ゆえに地名も境という。goldheadさんもまた、境に辿り着いた。道を踏み外して田んぼに落ちて、どこかべつの世界に旅立つようなことはなかったのである。そして、goldheadさんを待ち構えていたものはなんだったのか。そこには、彼をがっかりさせるようなものは、なにもなかったのである。
「うそのような光景だと思った。サイクリングロードが、あらわれたんだ。利根川の手前、江戸川だ。一台、ロードバイクがさーっと通り過ぎていった。幻のようだった。ぽかんと口開けて、あっちを見てこっちを見て、ああ、この道を北上すれば、日本海まで行けるのかなって、そんなふうに思ったよ」



 goldheadさんは、ゆっくりと世界のすべてを楽しむように、北に向けてペダルを漕ぎ始めた。地図がないなら、買えばいい。日本海まで行ってやろう、そんな思いが彼をとらえたとき……。
 城が見えてきた。そして、すぐに江戸川サイクリングロードは終わってしまった。利根川が、そこには流れている。彼は、江戸川が利根川水系に属する分流のひとつであるなど、ついぞ知らなかったのである。とはいえ、彼には充足感があった。まあ、これが自らの、今の器量だろうと思った。城でひと休みすると、茨城県まで足をのばし、あとは江戸川サイクリングロードを下ることにした。行きつく先はよくわからない。だが、コンパスが南を指すかぎり、近づきはするだろう。



江戸川サイクリングロード




 goldheadさんはサイクリングロードらしい道をはじめて走った。このような道があっていいのかと思った。ただひたすらの、自転車のための道であった。彼を除いてほとんど人の姿は見えない。だんだん低くなってくる太陽、川の水面、ススキの穂。また、草原が広がれば、スポーツに興じる子供、そして、グライダーの姿を見ることもあった。

「……右手にグライダーの姿を見てね、なんていいんだろうって、自転車をとめて写真を撮ったんだ。そして、また漕ぎ始めた刹那だったな。目の前に、なんというのだろう、怪鳥、とでもいうような影がね。ああ、あんなに近くに飛行機、グライダーって飛行機なのかな? まあいいや、それを見たのは、はじめてだった。それが、まったく無音で、軌道を変えて、降りてきたんだ。僕は目が離せなかった。それでも、その一瞬を切り取りたいと、カメラを取り出そうとしたんだ。でも、間に合わなかった。すうっと原っぱの方に降りていったんだ。脇をすり抜けて。そのあと、グライダーがどんな風に着陸したのだとか、まったく覚えていないな。ただもう、目の前の、あの大きく、優雅で、落ちてくる飛行機の、無音の幻の、そればかり脳裡にこびりついて、そのあと、どんな気持ちで自転車を漕ぎ始めたのか、ほんとうに、もう覚えていないんだ」




 その後、江戸川を下りつづけた彼は、矢切付近で進路を失った。急に砂利道があらわれ、どこに行ってよいかわからなくなった。そのときちょうど、日が落ちた。goldheadさんは、富士山のシルエットの横に、ふっと吸いこまれるに消えていく太陽を見た。彼は、そんな太陽をいままでに見たような気がしたことはなかった。なにもかもすばらしく、世界を包んでいた。彼は、自分がどこからきて、どれだけの時間を過ごし、これからどこに行くのかもわからぬまま、また自転車のサドルにまたがると、ペダルをくるくる回し始めたのだった。

 おしまい。


Dst194.95km Av20.5km/h Tm9:29'15

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