『咲-Saki-』のことと、あと作品のリアルさとかについて

咲 Saki (7) (ヤングガンガンコミックス)

咲 Saki (7) (ヤングガンガンコミックス)

咲 Saki (8) (ヤングガンガンコミックス)

咲 Saki (8) (ヤングガンガンコミックス)

咲 Saki (9) (ヤングガンガンコミックス)

咲 Saki (9) (ヤングガンガンコミックス)

咲 Saki (10) (ヤングガンガンコミックス)

咲 Saki (10) (ヤングガンガンコミックス)

 『咲-Saki- 阿知賀編 episode of side-A』を観ていて、本編の方の漫画が6巻止まりだったことに気づいて、あわてて3冊買って、繰り返し読んでいるわけですが。まあ、やはり『咲-Saki-』もすばらしい。この「も」は『ストライクウィッチーズ』と比べて「も」、くらいの意味あいであって、俺の中でこれ以上の評価はないくらいにすごくすごいのです。
 とはいえ、スピンアウト編も加えてどんどん出てくる新キャラの洪水に「もう顔も名前もおぼえられません」みたいな感じになっているのは否めない。正直、毎週楽しみにしてる『阿知賀編』の主要キャラの名前もあやしいというかわかってない。俺はもとより人間の顔を覚えるのが苦手なのだし、そういう意味で彼女たちを人間のように見ているってことじゃないでしょうか。無理があるのです。まあだってみんななんか名前むつかしいし。
 まあそれでもいいのです。四人打ち団体戦という数限りなく登場人物が増えていく事態にあって、それでも一人ひとりをおろそかにしない感じが、「おぼえられなくてすみません」の罪悪感を生みだしているとすれば、それはたいへんな愛が込められている作品だということじゃないですか。
 まあしかし、何を差し置いてもステルスモモと加治木が出てくれば満足みたいなところは認める。あと、大人の百合を描いた8巻の番外編もいいです。こないだ読んだ森島明子みたいです。
 って、なんというか、『ストライクウィッチーズ』と『咲』の共通点を考えると……「女の子ばっかり出てくる」、「百合っぽい面もある」、「世界に広がりがある」、「パンツ方面になにかがある(というか、ない)」といったあたりがあって、おまえ所詮そのあたりだろっていわれたら、そうかもしれないですが。
 ……しれないですがね、やっぱりなんかいいんですよ。いいところがある。ハートがある、魂がある。『咲』でいえば、中学時代に『近代麻雀』三誌買って、友人の実家のでかい病院の最上階の接待室で全自動雀卓使って麻雀打って、『哭きの竜』の真似とかして、そんな程度ではあるけども、麻雀の入門編くらいのね、まあ少しは知ってる俺が読んででもですね、こう、熱くなるところがある。ゾクゾクくるようなシーンがある。そこんところがいいのです。まあ、リアルな麻雀とは言えんかもしれんけど、リアルな麻雀漫画なのですと。

 と、リアルといえばこんな話を目にして、目にしなければよかったとか思ったのでした。しかしまあ、言葉にかぎらず、自分があるていど知っているようなリアルっぽいところがリアルじゃねえと、やっぱりちょっと気になるし、ちょっとなんか言いたくなる、そういうところというのは出てきてしまう。それの全体がどんなにすばらしくて、その欠点一つで真っ黒になるわけじゃないけど、なにか小さな一点の染み、抜けるような青空撮ったのにぼんやり写り込むCMOSの埃、そんなものはある。完全なものはありえない。
 俺についていえば、多少は知っている分野というと、たとえば、映画など観ていて競馬のシーンが気になるわけです。競馬映画の競馬シーンってわけじゃなくて、もうぜんぜん本編の重要なところじゃないとわかっていても、なにか気になるわけです。

 たとえば、俺は『国道20号線』の競馬シーン、競馬シーンどころかちょっと映ったスポーツ新聞の競馬欄と、ちょっと聞こえる実況中継の、そこんところが気になってしまう。映画館で観てて気になって、ヴァーミリアンだとかトミケンドリームだとかが脳の領域の一部を占めてしまうわけです。まあ、俺は病的というか、強迫性障害的な病気なので詳細な部分に目が行ってしまうというところは否めないのですけれども。

 『コクリコ坂』の徳間書店描写とかね。で、調べてみて、あ、『情況への発言』も『少年愛の美学』も徳間だったんだって帰って調べて納得するとかいうことになるわけです。
 いや、納得すると気持ちいい。悪くない。で、おそらくだけど、競馬も本もなんも興味がなくとも、細部にこだわってると、そこんところがその領域を知らない人にとっても、よい効果があるんじゃねえかと、そんな風に想像するわけです。たとえば、今やってるアニメ『つり球』の釣り道具、釣り描写、魚描写なんかはそうとうこだわってるらしいんですが(ノイタミナラジオ平野文さんがゲストの回より)、そういうところもあって、わりと『つり球』はいいアニメなんじゃないかと俺が思ってる隠れた理由になってるんじゃないかと思ったりするのです。というか、あれについてはレペゼン腰越津、江の島でしらす丼だの言い出したの最近のこと、みたいな古い土地鑑のある俺が見てて悪くないと思うので、それはもう隠れてない理由かもしれませんが。というか、そんなに江の島以外のシーンねえけど。あと、『坂道のアポロン』の方言がどうだかはよくわからないけれども、演奏シーンとともになんか裏打ちされてる部分はあるんじゃないかみたいな、そういうところはあるように思えますが、はたして。
 でもですね、でもだ、たとえば100人の観客なり読者なりがいて、99人が知らないような分野についての、わりとどうでもいいシーンがあるとしましょう。それで、99人が知らないような分野についての、わりとどうでもいいシーンを精確に描くことによって、話の流れがかえって遮断されたり、あるいは99人が、知らないがゆえに「このシーンはリアルじゃねえな」って思ったり、なにかこう、負の効果が見込めるんじゃないかと、そうなったときに、はたして100人のうちの1人のためのリアルさを優先させるべきかどうか、みたいなそういうところは絶対にあるわけです。俺は創作というものをしたことがないからわからないけれども、おそらく、この切り捨てる部分というのは決して小さくないんじゃないかと、そう想像するわけです。尺も予算も無限じゃないし、小説だって長く詳細であればあるほどいいというわけはない。そもそもいかなる創作者も、世界全部の詳細について知っているわけがないし、調べる暇があるわけでもない。
 だから、関西弁がリアルじゃねえから全部アウトだ公開処刑だって、そうなるわけじゃないんです。ただ、知っていたり、知ってしまったりすると、CMOSのクリーニングしなきゃみたいな気持ちにならずにはおられない、そういうところも出てくる。それで、作り手が「100人中98人にとってどうでもよいこと」と切り捨てたりしてみたら、実は逆に100人中78人くらいが不自然に思ったりするとか、そういう誤算みたいなものも出てくるかもしれないし、そこのところの兼ね合いというものは、一概にこうすべきと言い切れるようなものではないのでしょう。世の中には、100人中100人がリアルじゃねえと思っても、賞賛の拍手を送りたくなるような作品だってわるわけですから。たぶん。
 まあしかし、知るというのは厄介なものです。これはもう、さんざん言い尽くされてきたことなのでしょうが、あらためてそう思う。たとえば、俺はこのところバラを数百品種撮影したのだけれども、そうしているうちに、たとえばそこらの庭先で咲いているバラについて、その品種名を知らぬことによって、今までは普通に「きれいに咲いているな」と思えたものがそう思えなくなる、そういうことがあるわけです。下手にバラの名前を知ったがゆえに(すべて同定できるくらいに知れば問題ないのかもしれませんが)、わからないものは見たくない、そんな気にすらなってしまう。血統のある馬に興味はあっても、野生馬にはあまり興味がない。そこで、野生馬の魅力を感じられなくなる。
 かといって、ものを知らなければ知らないで、ほんとうにあまりにも知らなすぎるとある種の作品には門前払いすらくらってしまう。だから、勉強はしたほうがいいのですと、キュアハッピーに言いたいし、かといって知りすぎるのもよくないのかもしれないと言いたい。しかし、そんなことを言い切るには、やはり完全に知った上でこそ言えるようなものであって、人間はますますかしこくなるべきかもしれないし、俺もキュアハッピーもますますかしこくなるべきなのかもしれない。ますますかしこくなった上で、それを放棄して自由自在の境地にあって不二の法門に入ることが求められるのかもしれません。知と無知に二分するという発想、敵か味方かという発想、これを超克するべきかもしれないのですし、古来東洋にはそういったものが根付いていた。あるいはそれを「道」と呼ぶのかもしれません。だから、俺はキュアハッピー大川周明にそのあたりのことイスラムについて聞きに行くし、キュアビューティさんはひょっとすると軽いうつ状態バーンアウト症候群かもしれなかったので、プリントアウトしてお医者様に診てもらうといいんじゃないでしょうか。なんの話なのだっけ。おしまい。