『ヘンリー・ダーガー 少女たちの戦いの物語―夢の楽園』原美術館

goldhead2007-07-02

http://www.haramuseum.or.jp/
 テレビでちらっと見て気になってたけど、十数点じゃなあとか思ってて(……というのはサイト流し読みした勘違いで、かなりの大もの24面、その他小作品あって満腹でした)、でも、行かれた方の感想など読むとやはり気になっていたら、テレビのあとに「こんな人知ってます?」と話を振っておいた人からお誘い受けて行くことに。あっちの東京ミッドタウンサントリー美術館という話もあったけれど、「こっちは二度と見る機会がないかもしれないから」とのこと。
 原美術館を訪れるのは学生の時分以来だろうか。あれは何の展覧会だったんだっけ。すっかり忘れてしまって、宮島達男のデジタルカウンターの印象しかない。そのとき美術館はがらがらで、あれを独り占めできたのだった(あのカウンター売ってないかと思ったら、ショップではあれをモチーフにした光るTシャツを売っていた。買わないけど)。この日はけっこう混んでいた。ここまで狭かったかな、と思った。
 あと、感想はまとめる気もないので順不同にぶちまけておこう。

  • 見ていて、気恥ずかしさを感じずにはいられない。……人とそうでない人に分かれるのかどうか。少女画よりもむしろ、将軍像や、地図などを見てくらっときた。僕の考えた超人、俺のガンダム、あなたの邪気眼
  • 人の目を気にする、気にしない。秘密ですらない。人の目から隠すところにあるのではなく、人の目も存在しない、ただ一面の自分。見せたいとも思わないが、見せたくないとも思っていないのではないか。はなから他者など存在していないのではないか。その凄味。俺はそう思ったのだけれど、どうだろう?
  • はじめから終わりまで、ただ作っていたようには見えない。技巧の向上が……少なくとも、時系列的に後とされている、花と植物に囲まれた少女たち、そこには、彼なりのなんらかの上達、明らかにそれがあるように思える。色づかい、レイアウト。彼が彼自身の作品に何らかの納得があった、そういうようなものに見える。少なくとも俺にはそう見える。
  • 植物の描き……いや、カット&ペーストかな、まあ、植栽、というとなんだけれども、それは他のナンセンスさとはまた違ったものがあるように見えた。動物的でなく、植物的。監獄のサドみたいな。百科全書的な。
  • 真の信仰あるところに真の芸術あり。ダーガー氏はカソリックだったらしい。
  • 切り張りされた作品の一部にすぎない。断片をつまみ上げて、清潔な美術館(……というイメージとも少し違う美術館だけれども)に展示して、ってところはある。と、見せる側も思ったのだろう。ゆえに、彼の部屋というものをいかにして伝えようかという苦心は見て取れた。そこは重要だ。拾ってきた雑誌の束、絵の具や糊、いや、そもそも男やもめのワンルーム。そこには、その住人以外をうえっとさせる臭いがある。その中で見つかった作品の束には、うえっとさせる臭いがあったはずだ。嗅覚の話ではなく。それを忘れて、ちょっと鮮やかな断片だけつまみ上げたのでは、……もったいない?
  • でも、どうも案内によれば「拷問や殺戮」系作品はオミットしているらしい。そういえば、戦後図に塑像のようにその痕跡が描かれていたっけ。一階の戦争・戦場はいかにも「頭ん中すごいことになってます」だったけれども、やっぱり「拷問や殺戮」すごかったのだろうな。嵐は再び吹くと、少女の本に書いてなかったか。
  • 彼の最期の話は少し悲しいものだ。部屋から病院に身を移して、おびえてわけがわからなくなって死んだ。部屋に魂を置いてきたようだ、と書かれていたが、彼の魂は、ヴィヴィアン・ガールズは彼とともにおらなんだか。せめて最期も紙とえんぴつ、それがあればよかったのだが。
  • チンコ生えてるという事前情報もあって、慎重に探そうと思ったら、思いっきり生えていたので意気込む必要もなかった。少年らしい少年というと、モンスター系の絵の中に、オスのが居てその顔だったろうか。
  • モンスター系はモンスター系で一つの統一されたフォーマットがある。国旗にしてもそうだ。無秩序、野放図、書きたい放題ではなく、むしろ、百科事典的な、そういう印象がある。まあ、元の物語がまずあって、それの図解という目的だったのだから、当たり前なのか。
  • オリジナリティ……という言葉をどうこれらに当てはめていいかわからないが、彼の手によって自由なラインで描かれたといっていいのが、モンスターシリーズだったか。これが、まるで草間彌生(入り口んとこにカボチャあったね)という風。
  • もちろん、トレース、稚拙も大胆も通り越したトレース、切り張りのおかしさについて忘れてはいけない。これは単純におかしみがある。もっとも、そういう見方をすれば画面の端から端まで突っ込みどころであって、そんな気は失せるかもしれない。馬の絵がみな馬術競技のトレースというのが馬好きにはツボ。
  • 全体的にツボに入ったかどうかというと、そこまでは行かないというのが正直なところ。だが、否定的なところもまたなく、子供の絵を見ているようなのに近い感じはあった。絵の躍動があって楽しいのだ。その代わり、心が疲れるくらい打ちのめされるとか、そういうのはなかった。だけれども、そればかりじゃないので、これはいいのだ、とても。少なくとも、頭でっかちの冷たいやつとかよりはいい。
  • 子供の絵というと、トレースや模写されたピカチュウやらなんやらが出てくることがある。俺はそれをあまり面白くないと思っていたが、書いた側にしたら、彼らの中の物語があるのやもしれず、一概につまらないとしていいかどうかとも思った、が。
  • 来た動機でもあったけれども、見ておいてよかったという思いはある。こんなの、家主が芸術に興味が無ければ、「きもちわる」の五文字で焼き捨てられていただろう。今までの歴史上、数え切れないほどのヘンリー・ダーガーがいて、数え切れないほどのヴィヴィアン・ガールズが、誰の目にも触れず焼き捨てられてきたはずだ。たまたま、このヴィヴィアン・ガールズが生き残ったけれども、それはこのヴィヴィアン・ガールズがほかのヴィヴィアン・ガールズより優れていたとかそういう話ではなく、そもそもそれらは他者も他作品もあり得ないようなものであって、そもそも生前と死後で評価が違う芸術家、などというのとは一線を画す。目的はそこでそのとき完成している。そこんところがいい。でも、別に生前から評価を受けていたヴィヴィアン・ガールズもあるだろうし、芸術のメーンストリームでヴィヴィアン・ガールズやってる天才もいるだろう。あるいはたいしたことがないのに残ってしまって結局誰も知らないヴィヴィアン・ガールズとか、いろいろなパターンはあるのだろう。まあともかく、因と縁の奇妙な繋がりが繋がり繋がって俺がそれを見ることになった不思議、それは悪くない。