しばしの別れ 横浜美術館『トライアローグ』へ

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横浜美術館、来たこれ。

 

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2年くらい休館するので、このご時世だけれども行っておくかという。まあ、完全予約制やし、換気はどうかわからんが、おしゃべりする人間も少ないだろう。

 

トライアローグ出品作品感想

で、やっているのはこれである。

yokohama.art.museum

横浜美術館愛知県美術館富山県美術館20世紀西洋美術コレクション」。ということで、三つの美術館が「うちにはこんなんあるんだぞ、ドーダ!」と自慢のコレクションを持ち寄った展覧会……なのかな。まあいいや、たぶんそうだ。

 

Section I 1900s―アートの地殻変動

パブロ・ピカソの《肘かけ椅子の女》(富山)、《肘かけ椅子で眠る女》(横浜)、《座る女》(富山)なんかを並べているのは面白い。《座る女》の解説で「ヴァギナ・デンタータ」なんて言葉を見る。

 

アンリ・マティス《待つ》(愛知)ははじめて見たがなかなかいい作品。おれはマティスマティスしているのは好みではないけれど、この絵はそれほどマティスマティスしていないのでよいのだ。

 

マルク・シャガールの《山羊を抱く男》(富山)はごつい迫力があった。シャガールというと、どちらかといえば浮遊しているイメージだが、これはどっしりと土地というか大地というか山に根付いている。

 

パウル・クレー《攻撃の物質、精神と象徴》(横浜)には、作品の解説ではなく、技法の動画へつながるQRコードがあり、「なるほど、これが油彩転写か」とその場でYou Tubeを見て勉強するなど。作品としては《蛾の踊り》(愛知)がよかった。

 

Section II 1930s―アートの磁場転換

いきなりマックス・エルンスト。ここでも技法の解説動画へのQRコード。「デカルコマニーというこういうものか」とお勉強。というわけで、コラージュではないのが三つ並んでる。《少女が見た湖の夢》(横浜)、それより《ポーランドの騎士》(愛知)の方がおもしろいか。

 

ルネ・マグリットでは《王様の美術館》(横浜)。この展覧会のポスターや、スマホ用の解説サイトにもキャラとして使われているので、今回の目玉だろうか。ただ、この絵から400字くらいの物語を募集みたいなイベントがあったらしく、それの入選作を森山未來が朗読している映像が流れてたんだが、音がやや大きいように感じた。

 

三つ並んでいたのはポール・デルヴォー《こだま(街路の神秘)》(愛知)、《夜の汽車》(富山)、《階段》(横浜)で三館揃い踏み。最初の二つだったか、同時に発表されたけど、当時は酷評されたとかなんとか。《夜の汽車》が一番デルヴォーっぽいか。しかし、「デルヴォー」で検索すると、カバンの画像ばっかり出てくるのね。ブランドとか無知なのでしらなんだ。

 

なんかわからん、ぽつん、という感じで展示に混じっていたのはバルテュスの《白馬の上の女性曲馬師》(愛知)。なんでぽつんと感じたかはわからない。

 

ヴィフレド・ラムの《アダムとイヴ》(横浜)。これを見て、おれとおんなは、「あ、ラムさん、あるんだ」となった。いつだったか横浜美術館で開かれたヴィフレド・ラム展、あまり客の入りがよくないな、と思っていたら、後年、なんの企画だったか横浜美術館展覧会振り返りみたいな表があって、ヴィフレド・ラム展はやはり入場者数が多くなかった。なので、おれと女の間では、「かわいそうなラムさん」ということになっているのだ。失礼な話である。

 

女が好きな画家がジョージア・オキーフで、たぶんアカンサス・モリスのアップであろう《抽象 No.6》(愛知)という作品が一点展示されていた。

 

おれがこのへんで気に入ったのはアド・ラインハートの《No.114》(愛知)で、番号もオキーフよりでかい。どういう比較だ。アド・ラインハートというと黒い絵なのだそうだが、これは赤系の色の組合せで、まあ抽象画らしい抽象画なのだけれど、見ていて不思議と飽きないところがあった。

 

アド・ラインハートが赤なら、サム・フランシスは青い絵2点。《消失に向かう地点の青》(愛知)と《ブルー・イン・モーション 3》(富山)。後者の方が、中央に大胆な空白があって、前者より面白く感じた。女もこの絵を気に入ったが、ミュージアム・ショップでポストカードになっていたのは前者であった。

 

あとは、ジャン・デュビュッフェの《二人の脱走兵》(愛知)という作品もよかった。背景の妙な感じはデカルコマニー? などとさっき知ったことが頭に浮かんだ。脱走兵の描かれ方はユーモラスだが全体には悲惨さもある。

 

Section III 1960s―アートの多元化

イヴ・クラインの《肖像レリーフ アルマン》(愛知)。これがインターナショナル・クライン・ブルーなの。なんというか、すごい青。存在感が強い。それが、ブロンズ像に塗られていて、背景のゴールドとの対比がまた強い。そして、下世話な話だが、モデルのアルマンさんの下半身の部分、これが後世に残されることを承知していたのかなどと思う。

 

そのアルマンさんは《バイオリンの怒り》(富山)で怒っていた。いや、怒っているのは、煮こごりみたいにされたバイオリンか。

 

面白かったのはブリジット・ライリーの《オルフェウスの歌 I》(富山)で、波線のパターンの繰り返しなんだが、これもよく見れば微妙にパターンが異なっていたりして、色のハーモニーと相まって、見飽きることがない。けっこうでかくて、そのでかさも作品に没入できる感じがあってよい。

 

この展覧会は基本的に絵画かブロンズ像か、なんかの組合せの立体か、ところが多いが、そんななかで動きのある光の仕掛けのある作品が。というか、こないだ美術館で会った人だろ、というのがクリスチャン・ボルタンスキー《シャス高校の祭壇》(横浜)。こないだ、といっても国立新美術館でボルタンスキー展に行ったのは2019年の話ではあるが

 

まあ、そんなところ。あ、作品名のあとにいちいちどの美術館の所蔵か書いたのは、最後にどの美術館の作品に一番関心を持てたか書こうと思ったのだけれど、数えるのがめんどうなのでやめる。

 

あと、やけに疲れた。作品数の多さや、作風の圧などで疲れることはあるが、今回の展覧会はそういう感じではない。それでも、やけに疲れた。さらにいえば、眠気のようなものすら感じた。女もなぜか疲れたといった。思うに、ひょっとしてだが、マスクをしていたことによるのではないか。換気がよいとはいえない美術館の中、マスクをしていて酸素不足? みたいになったのではないか。あくまで、仮説。なにかの偶然かもしれない。

 

しばしさよなら横浜美術館

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で、企画展の帰りにさらっとコレクション展にも寄る(こっちは撮影可)。なにせしばし見られない。この部屋割も変わってしまうのであろうか。もう9年も前になるが、高嶺格と学芸員に「ちょっと古い構造だから現代美術展には向いてない」みたいにdisられてたのを思い出す

 

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この段々にもなんか作品置いてあったっけな。先に撤去されたんだろか。

 

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馬のやつはトリエンナーレのときに外に出されていたっけな。

 

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まあ、2年だか、3年後に会いましょう。……って、おれが生きているかどうかも定かではないのだけれど。

 

で、帰ってきたらテレビもネットも森喜朗東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長辞任の話で盛り上がっていた。後任は、なんと森よりひとつ歳上の川淵三郎が有力だという。もし、2年だか3年後だかにこの記事を読み返したときに「そんなんあったな」と思い出す用のメモ。

ちなみに、別件で女にメールしたときこの話題を振ると、「スポーツに通じてる女の人、たとえばあの、レスリングの強い女の人とかにすればいいのに」と書いてきたので、「え、柔道の女三四郎こと山口香さんじゃなくて?」と返すと、「吉田沙保里」と返信があった。そりゃあ強いが、いや、しかし……。