ちかくてもよくみえない〜高嶺格「とおくてよくみえない」〜


 どっかの写真ブロガーのテリトリかもしれないとか思いつつ、野毛でクジラとか食ってね。

 ぶーんってひとっ飛びしてね(掃除したばかりのCMOSに一点の曇りなくてね)。

 ハイ、横浜美術館。この2時間半後に学芸員とアーティストとキュレーターに内部で内部構造をdisられる横浜美術館キタコレ。

 というわけで、高嶺格の「とおくてよくみえない」に来たと。高嶺格といえば、横浜トリエンナーレで見た「鹿児島エスペラント」がすばらしくすばらしかった芸術家であって、俺はそれ以外のことも、名前の読み方もぜんぜん知らなかったんだけれども、どう考えても来るしかないという土曜日のこと。偶然、次のトリエンナーレのキュレーターと高嶺氏本人のトークショー(ショー、ではないか)もあるというので、それも聞いてきた。以下、それも踏まえつつ。
 で、あえて知らんままで、の気持ちも少しあって、あまり事前にウェブサイトとか見ないで来たの。ウェブサイトの、本人曰く「なにを言ってるかわからない」、「マル秘映像みたいなしろもの」というインタビュー動画も見ないで来たの。いや、城西大学城西国際大学って、どっちが駅伝出てる方だっけ。
 まあ、それで、第一の展示じゃない。これはもうね。いや、見てきたやつならわかんだろ。あー、「ん?」ってなってね。いや、俺、高嶺さんのバックグラウンドなんて知らないし(知ってたところで大学で漆工専攻してたと言われても)。で、一つ目の角くらいで「これは?」ってなって、もうちょっと早足になったりすんじゃん。同行者と目ぇ合わせて吹き出しそうなる。でも、吹き出していいものかどうかわかんない。だって、あっちで一生懸命メモとってる美大生みたいな子いるんだもん。いや、俺の見立てが間違ってるのかもしれない。まったく、本気で怒ってその場で寝てしまうやつがいるかもしれない。それでも、オチじゃないけど、「これは」という気にもさせられんだけど、これも自信を持ってどうだとか言えないわ。最初からすごい揺さぶってくんのね。
 で、一旦外に出て(←この構造をディスられてた。年代別に絵画を展示するような場合にはいいが、今回のように一連の流れとして見せるものには不向き、と)、次の部屋……でなく、外に映像作品があったか。両脇におもろい人形が置いてあって、またふざけたタグつけやがって(これもどうだか知らないですよ)、それがしゃべるのがいちいち笑えた。
 で、次の部屋。……とか、順次解説してって何になるの。なにせ、展覧会の会議で、いったんは「あかるくてよくみえない」、「ちかすぎてよくみえない」、「くらくてよくみえない」をそれぞれの部屋のテーマにして、実際にそれぞれよくみえなくして来場者に怒られるようなものにしようってなったとかいう話だ。開けてびっくりじゃねえけど、予備知識なしで行ってみてほしいってさ。いや、俺がこの日記を誰に向けてなんのために書いているのかわからんが、どうもそういう気持ちにはなる。
 いや、でも俺のために覚え書きしよう。なにせ、絵画におけるカタログ画集のような形で擬似的な記録をできるようなものではないのだ。……と、いったところで、「鹿児島エスペラント」のようななにか、をどう言葉にしろと。こう、そうとうに暗い部屋の中で、音楽が流れていて、精密に機械制御されたスポットライトが、妙にやわらかい筆のような輪郭の光でなにかを照らして、それは文字であったりして、文章であったりして、くなったりしてね。それで、真っ暗で、音楽が流れていて、ライトが這って行って、なんか誰かいたりして、気配があったりして、音楽が流れていて、あと2時間くらいここにいようかって気持ちになったりするの。ほら、意味ないだろ。
 というわけで、たとえば、率直に政治的であり、なおかつ言葉をも持っている作品について、俺が文章にすることに逡巡があるというところをわかっていただけるだろうか。俺にはよくわからんが。なんというのか、言葉の説明で、ある種の了解が終わってしまうとしたら、すげえもったいないような気がする。いや、この日記など読む人間もあまりいないし、俺の言葉にそこまでの影響力はないだろう。
 いや、感想は書けるのか。なんというのか、ある種のあけすけさというか、身を呈して、身を晒して、晒せるところまで晒して、というようなところを感じる。その晒し方も、頭の中の答えじゃなくて、モヤッとした部分とかもそのまま出してくる。この世界があって、作者になにか入ってきて、謎の変換が施されて、出てきた。さあ、これはなんだ。そういう感じ。そういう、でっかいクエスチョンマークの感じ。
 ただ、その見せようにも、現実を、日常を、ざっくり切り取って提示する場合もあれば、あるいはもう、どんだけ非日常なんだよ、という遠回りのナックルボールみたいなものもあって、このアーチストについてはどっちもやってくる、というところがあるのかな、などと。あるいは、小さなものと、大きなものの同居というか。後ろのほうで、『時計じかけのオレンジ』みたいにヘコヘコやってたりするところとかさ。芸術の狂気というものがあれば、そこらへんだろうし、この展覧会は充分に狂ってる。
 そんな感じ、なのかな、と感じたのは、トークを聞いて、というところもある。そう、トーク。俺は現代美術のことがよくわからないのはもちろん、ヘーゲルの『美学』も男の美学も知らんので、「ちょっとこのようわからんもん、どんなんなってんの?」というところ、まさに同時代、同時間、最前線というか現場、それも設置の徹夜明け、本人や専門家の口からどんな言葉が出てくるのって興味が湧いて覗いてみたんだわ。ひょっとしたら、なんかスパッとした解説、理解が得られるんじゃねえかと。
 で、徹夜明けでフラフラの人から語られること、横のキュレーターの戸惑ったような感想に対してまた考え込む感じ、やっぱりスパッとしてねえし、そういうもんなんだろうって。いや、ひょっとしたら、凄まじい校正を経たカタログ(というか、展示づくりと同時進行か先行かで作られた本)には、もうちょっと幾らかはあるのかもしれないが、それでも、やっぱり、さっき見てきたもんなんだって。解説の言葉にできるなら言葉にするのだろうし、そうじゃねえからああなったんだと。たぶん。
 よくわかんないけど、それはもう、最後の展示とかみたいに、ああなったもんをああさせて、ああ見せるって、そうなんだって。で、そのよくわからんものも、誰かの世界の見えようや感じようにまったく新しいものを投げつけてきたり、あるいは、それがそうでありながら、どこかまったくべつの形で感じたなにかと似ていたりするかもしれない。
 ようは、そんなところ、そう、むしろ、俺はどこかでつながっているところ、似ているところ、結局は、ものすごく違っていても、同じところを探したくなるところがある。還元していけば、限られた元素で作られたこの宇宙のこと。ビッグバンのみがオリジナルで、あとは反復。星と星が銀河の端と端にあってとおくてよくみえなくとも……いや、強引に展覧会タイトルを持ってきてまとめようとしました。すみません。
 ま、というわけで、ぜいたくを言えばもっとたくさん観たい! という不満はあったものの(あと、展覧会で、エンドレスで流れる映像作品というのにはモヤッとする。いちいち人を置いて入れ替え制にするわけにもいかんのだろうが。あ、でも、今回で言えば、物々交換のやつが少しそれにあたるくらいで、でかい粘土のと、三画面のはそうと感じなかった。一方で、こっちの部屋の写真連作は、トークで「絵だって時間芸術だと思う」というようなことを言ってたあたりの何かではあるか、って、なんでこんな最後のカッコの中で感想書いてんだろう。上で書け、上で)、行って損はなかった、おもしろかった。これはいいよ、といっておく。仮にお前が怒っても俺のせいじゃないし(曰く、個展が失敗したら作家のせい、グループ展が失敗したらキュレーターのせい、らしい)。それに、なんというか、下半身のある部分にじんわりとしたなにかが宿るようなところもある。だから、高校の美術部に所属する処女と童貞が初デートで見に来たりしてもいいだろう。おしまい。

(関係ないが、この夜の月はすごかった)

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