女が「ボルタンスキー展に行かないか」というので、「ああ、ボルタンスキー、いいですね」と応えた。断っておくが、おれはマルゼンスキーやヤマニンスキーを知っていても、ボルタンスキーというのは聞いたことがなかった。
というわけで、久々の国立新美術館。
チケットは展示室入り口(二階)でお求めください。
で、ボルタンスキー。現代フランスを代表するアーティストだという。ものすごく芸術に詳しくて、それを生業にしている人たちがそう言うのであれば、やはりそれはそういうものであって、そうであれば何かしらあるだろうというのがおれの感覚である。おれには権威主義的なところがあって、おれより知見のある人間であろうと思われる人間の言うことには盲信せずとも信頼をするのである。
しかし、久々の現代アートだ。などと思っていると、最初の映像作品が、ひたすらゲロゲロ嘔吐く男というもので、会場にそのゲロゲロが響いていて、「ああいかにも現代アート展らしい」とか思った。
して、ボルタンスキー。影であり、抜け殻という印象を受けた。
造形の面白さというのもこの《幽霊の廊下》(※撮影可部分です)などにも見られる。
ユーモアがないわけではない、ようだ。
しかし、この《ぼた山》、黒い服をひたすらに積み上げた作品はどうだろう。服の中にいるべき人間はどこに行ったのか?
《アニミタス(白)》。なにか、気配ばかりがあるような。
《スピリット》。死者にこだわるその源は。
……その源は自身の出自に関係するところのホロコーストかもしれない。が、しかし、ホロコーストならずとも、人間、生きては死に、生きては死ぬ。子供は成長し、青年になり、やがて老いて死ぬ。死んで衣服を残す。死んで写真を残す。生まれては死んで、その魂の一切は無に帰す。ただし、衣服は残る、写真は残る。ボルタンスキーは死者の写真を列べ、飾り立て、記録しようとする。しかし、その顔写真ときたら、小さな写真を引き伸ばした、実にぼんやりとしていて、薄く、消え入りそうなものばかりである。そこに強烈なその人間の個というものがあるようには思えない。雑誌の死亡欄の写真を切り取って列べたものにも、個の生というものは削ぎ落とされているように見える。人間いうものが生まれては死に、故人いうものの個人というものもやがて他人からの記憶からも消え失せていく。それでも、人間いうものなんかのもの、ミーム、情報子を残し、積み重ねて進んでいく。一個の個人の生と死と、人間いうものの歴史のいまだ死なないこと。ボルタンスキーがどう考えているのかは知らないけれど、おれはこれら展示を見て、その目に見えない個と人類の生きるいうことについての、どこかで流れているもの、あるいは気配のような、そういうところを、抜け殻や亡霊という形で表してるんじゃないかと思うたのだ。おれの気に入った作品に《発言する》というのがあって、ジャケットを引っ掛けただけのような機械仕掛けの人形が、日本語と英語で死んだであろう人間に問いかけてくるのだ。「ねえ一人だったの? ねえ動揺した?」。こうなってはおれはもう死者の側にあって、幽玄境にある気にすらなるのだ。なかなか、そういう体験というものはできない。たとえば、現代アートのようななにかでなければ、と、思うのだけれど。
クリスチャン・ボルタンスキー -アニミタス―さざめく亡霊たち-
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