帰りなんいざ平和島デス・ロード(サマー2015)

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「……だからねえ、先生、そのときおれはこう思ったんです。おれが『マッド・マックス』なんだって。わかりますよね? 水が降ってきたんだ。この身がクエイクしたんだ。4DX! 4DX! 恩寵だったんです。それでおれは、下の階のドン・キホーテでツイン・ネックのギターを買ったんです。ついでにカシャーサを一本買いました。怖いものなんてなんにもないって思ったんです。それで、目の前にあった競艇場の超抜機を奪って、走りだしたんです。レンチがあればエンジンも唸るんだ。もう、そこは平和島なんかじゃなかった。地獄のデス・ロード・アイランドだったんです。それでね、先生、おれは〈大森 海苔のふるさと館〉に向かってぶっ放したんですよ。知ってますか、大森は海苔の……」

「今日はこのくらいにしておきましょう」

 ドアが閉まる。引き手の部分と頭より高い部分、足首より下の部分でかしゃんとロックされる音が鳴る。廊下は少しやわらかいゴムでできていた。クロックスの素材とまではいかないが、柔らかさを感じる。側溝みたいなのがあって、なにかが流されるらしい。おれの足は小さな女物みたいなスリッパを履かされていて、ズリズリと引きずるように歩くしかなかった。おれの両手は柔らかい素材の結束バンドで固定されていて、まるで∞を描いているようだと思った。

「37.5度だの40度だのの酒を割ってどうするんですか? まったく酔えない。ビールなんて水と一緒だ。水と一緒だからカルピスで割る。飲めなくはない。おれにはカルピスを飲む習慣なんてなかったから、ビールのためにカルピス買ったんだ。それじゃ酔いが足りないからラムを、ジンを、ウオッカを、カシャーサをちょいと飲むってわけです。ちょいちょいちょいちょいちょいですよ。とっておきはスコッチですよ、シングルモルトの。ハードリカー以外はコストパフォーマンスが悪い。費用対効果ですよ。でも400円くらいの、コンビニで売ってるようなチリ・ワインは別だ。あれはあれで独特の……」

「今日はこのくらいにしておきましょう」

 おれの部屋は、おれが二人分寝そべった長さ×おれが二人分寝そべった長さでの面積があった。実際に測ったのだから間違いはない。もっとも四隅にはゴキブリよけのコンバットが置いてあって、顔を近づけると不快なにおいがしたのだが。床は廊下と同じ素材でできていた。窓はあったが鉄格子とすりガラスでろくに外は見えなかった。ドアはやはり三点ロックされていた。部屋の中には便座もあった。部屋はやけに冷やされていて、夏場の駅のトイレみたいな不愉快な冷気で満たされていた。

「……それでおれは言ってやったんです。とっとと後ろの車両に行きなって。ポケットから千円札の束を出して言ったんだ。なにも悪いことをして作った金じゃない。東京ジャンプステークスはさ、エーシンホワイティが人気しすぎてて怪しいって思ったんだから、それで馬連を。ねえ、馬連を! わかるでしょ。それでおれはカシャーサを頭からかぶったんですよ。カシャーサは甘ったるくてねえ、ピンク色の光線を浴びていたから、ピンク色だった。それでツインネックのギターから炎を一度、二度出してみせたんですよ。え、なんで新幹線にって? そりゃおれの超抜機がすごいスピードで京急に乗り継いで、新幹線に追いついたからに決まってるでしょ。京急もすごかったけど、新幹線もすごかった。先頭には人間をバラバラにするドリルがついてる。バラバラにした人間の髑髏はそのまま飾りになるんですよ、知ってましたか? 恍惚の速度、一瞬は永遠のようで、永遠は一瞬にすぎない。だから眼に焼き付けなきゃいけないんだ。おれはカシャーサの香りにつつまれて……」

「今日はこのくらいにしておきましょう」

 おれはおれのほかにおれのような境遇の人間に出会うことはなかった。いかにも柔道をやってそうな警備服の男と、四十くらいの看護婦の二人に付き添われているだけだった。おれは先生のほかになにか、たとえば今日は暑いだの、寒いだの(冷房のせいでいつもヘビーに冷えていたのだが)とその二人に話しかけるつもりもなかったし、向こうもそうだった。おれはとてもとてもベリー・ベリー無口だったし、二人もそうだった。おれが自室に帰ると、やはり三箇所でかしゃん、と音が鳴った。

「……田舎のね、田んぼ、あぜ道と少年ときたら、女がそこにいてスケベが爆発するわけなんです。でも、そんなのは真のわいせつって言える思いますか? 風情とか情緒が足りないっていうのが和の心じゃないのかって、おれはそういうことを言いたいんだ。そこの人体模型はある部分でとてもわいせつなんだ。日本の夏がどこにあるかわかりますか? オコエが外角の変化球にあっさりとひっかかって空振りするところにある。空にして有、それが妙なんですよ。ハイチ・コーヒーって知ってますか? ラムを入れていくんだ。おれはどんどん、どんどんラムを入れるもんだから、最後にはラムをストレートで飲むことになるわけです。やっぱり酒は割っちゃいけない。人間を割っちゃいけないのと同じことですよ。先生は人間を割ったことがありますか? 割った人間と割ったことのない人間は通じ合えないと思うなあ……」

「今日はこれくらいにしておきましょう」

 おれに処方された薬というのは、なんというか妙に手作り感があった。どこか製薬会社の大工場でパッキングされ、流通されてきたものとは違うような雰囲気があった。なにも包装されないで、そのまま小さな皿の上に転がっているからそう見えたのかもしれない。とはいえ、このビルの職員みたいのが、カプセルの中に顆粒を手作業で詰めてるんじゃないかという感じがした。なにか喉にひっかかるような感じがするものもあったし、やけに苦い錠剤もあった。おれは工業製品的で商業製品的なジプレキサを懐かしく思った。オーダーメイドの方が非人間的な気がする。

「……それでおれは京浜東北線の架線をぶった切ったんです。ジュードー・チョップです。なにせ横浜の空が燃えていたんだ。あれは危ない光だったんだ。おれはマッド・マックスだったから、おれ自身がマッド・マックスだったから、多くの人を救わなきゃいけないわけです。逆に、おれが救えない人はおれの業になるんです。重荷です。罪です。すべての悪事はおれに還ってくる。なぜならおれは、光であって、この世のすべての存在を存在たらしめているものだから、もしどこかにできてしまった影から悪いものが生じたならば、それはおれのせいなんです。おれは安穏と生きているわけにはいかないって、そう気づいた。すごくヘヴィです。頭が狂っちまいそうなほどヘヴィです。それでも、おれはあらゆるものの救済たる義務があって……」

「今日はこのくらいにしておきましょう」

 おれはテレビ・モニタの中で高校生たちが炎天下で野球をするのを見ていた。小さなちゃぶ台の上には安いチリのワインと安いチーズがあった。おれはちびちびと安ワインをすすりながら、制球の乱れたピッチャーの投じた逆球をうっかり引っ掛けてショートゴロにしてしまうバッターを見た。ところがそのショートがファーストへの送球を逸らしてしまうところも見た。もうピッチャーはグダグダなんだから、全部見送ればいいのに。でも、疲れきったションベンカーブがど真ん中に入ってストライクってありがちなんだ。甲子園の審判というものもある。だから、打つ方も打たなきゃいけない。すべての不幸がそこにはあったが、おれはおれで頭が薬と安い赤ワインでぐでんぐでんになっていた。おれは歯も磨かずにベッドに横になった。冷房はガンガンおれの身体を冷やした。おれは喉がとてもとても渇いたので、コップに水を注ごうとした。が、どうやってもコップは蛇口の位置から少しそれたところにあって、まったく中に水は入らなかった。おれの喉はどんどんどんどん渇いていって、このまま渇いて死ぬんじゃないかと思った。せめて一滴でもコップの中に水は入っていないかと口をつけてみたが、まったくの空だった。おれは苦しみ、苦しみ、苦しみ抜いた。もう身体も動かなかった。金縛りと渇きの中で、おれは死というものを具体的に感じた。

「……いつまで経ってもWindows10へのアップデートができないんだ。おれはおかしいと思って、これはなにか巨大なもののなすおれへの妨害に違いないと思ったんです。考えてみればおれは頭脳が明晰だし、五体も満足です。それなのに、おれの人生は妨害されているというのは、見ればわかるでしょう。『エウロペアナ』にも書いてあった。古着屋でボタンの一つとれたワーキングシャツを買えないんだ。なにせ、おれにはボタンをつけられる技術がないからですよ。本当に富めるものというのは、それを自分の手か、人の手か、なんにせよどうにかしてしまう。できる能力がある。ところがおれはそれができない。普段乗りの小径車のチューブを仏式に換えようとして、うっかり自転車をぶっ倒してリアの泥除けを破損しちまうって具合ですよ。その結果、おれはDOPPELGANGERのLEDライト付きの変な泥除けを買う羽目になる。それは見えない力が見える暴力となって顕れる瞬間だった。いま思えば、おれの人生に成功の二文字があったためしがない。会社あてのお中元に飲用のハーブ・ビネガーをもらって、一本持って帰ったんですが、その結果があの爆発だ、すごい被害。蔡國強の予告された爆発とは違うんだ。連続して三つも爆発して……」

「今日はこのくらいにしておきましょう」

 エレベーターに乗せられた。階数の表示はガムテープで雑に隠されていた。降りていくのは身体が感じた。ドアが開いた。ドアの外側から鉄格子の鍵が開けられた。おれは自由になった。それまで不自由を感じていたわけでもないが、自由になってみて、自由になったのだと気づいた。窓口でなにかの書類を突き出された。おれはなにを書くべきかわかったし、おれの名前を書く場所もわかった。しかし、先の柔らかい水性マジックを持つおれの手は震えに震え、なにも書けなかった。かわりに拇印を数箇所に押した。おれはひさしぶりにおれの鹿革の財布を手にした。iPhoneも手にした。そしておれは二重の自動ドアの外に放り出された。
 
 おれは夕方六時の街角、一人、イヤフォンを耳にさして、この夏のアンセムを聴き始めた。夢みるアドレセンスの「サマーヌード・アドレセンス」が流れはじめた。すべての映像は「サマーヌード・アドレセンス」より優れていなければならない。すべての存在は「サマーヌード・アドレセンス」を超えるべき地点を目指さなければならない。おれはそう思った。そう思いながらコンビニに入ってパック入りのワインを買った。ストローをさして飲んだ。アルコールが胃に染み渡った。

「朝起きて雨が降ってるかなって窓を開いたら、アパートの角、こっち向いて立ち小便してるじじいがいたんだ。じじいのアレは歳の割にでかくて、ピンク色がなまなましかった。おれはふざけんじゃねえぞクソがって思って、ドア横の木刀持ってメレルのモック素足に履いて飛び出したんだ。じじいはおれに気づいたか気づいてないかしらないが、モノをしまって歩きさろうとしてるところだった。おれは棒みたいな細いふくらはぎを後ろから思いっきり木刀でぶっ叩いた。じじいがうめき声を上げてもんどり打った。今度は正面から逆の足の膝をぶっ叩いた。叩き割った手応えがあった。〈おう、こら、なにやってんだ、この糞ハゲが、おう、逃げんじゃねえぞ!〉今度は左の首の付け根をぶっ叩いた。パキッと音がした。じじいはまるで抵抗しなくなってて、今起きてることに呆然としてるみたいだった。おれはじじいのみぞおちに勢いよく足を落として、目を見ながらこう言ったんだ。〈おれを見ろ!〉

 おれにはもう帰るべき家はなかった。出迎える人間もいなかった。しかし、手渡された地図のコピーには皮肉にも〈ホーム〉と書かれた行き先があった。
 外は少し寒かった。
 夕まぐれに一人だった。
 一人でどこまでも自由だった。
 けれど何をするにも不自由だった。
 真夏のピークはとっくに過ぎ去っていた。
 人はそれを秋と呼ぶのだった。
 

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