インターネットの「ウィンドウ」をいくら窺きこんだって……加島祥造『タオ 老子』を読む

 

タオ―老子 (ちくま文庫)

タオ―老子 (ちくま文庫)

 

言い直すと、世界ははじめ、

タオ・エナジーの働きを

徳(テー)として尊んだんだがね。

それを見失ったあと、

人道主義を造りだした。

それを失うと。

正義を造りだした。

正義さえ利かなくなると、

儀礼をはじめた。

儀礼がみんなの基準になると

形式ばかり先行して、裏では

むしり合いが始まった。

先を読みとる能力を威張り

愚かな競争ばかり盛んになった。

 

あの道(タオ)の

最初のパワーにつながる人は

上辺の流れを見過ごして平気でいる。

ものごとが自然に実を結ぶのを

待っていられる。

花をすぐ摘み取ろうなんてせずに

ひとり

ゆっくり眺めている。

「徳 大きな愛」

 今、時代は老子、といえるかどうかわからない。とはいえ、おれは加島祥造の英訳からの和訳であるところの『老子道徳経』を読んで、現代的というか、次世代的ななにかを感じたというのは紛れもない感想ではある。それが幾度となく繰り返されてきたヒッピー的なもの、西洋から見た東洋的なものなのかもしれないが、やはりそれでも老子の言葉は現代に届く、未来に突き抜けてる、そう思わせるなにかがある。

タオの道は世界に行きわたっている。

けれどもそれは

世界じゅう旅して廻ったって

見つかりゃしない。

インターネットの「ウィンドウ」を

いくら窺きこんだって、分かりゃしない。

遠くへ尋ねてゆけばゆくほど

ますます遠のくんだ、

情報を集めれば集めるほど

ますます分からなくなるんだよ。

「君自身への旅」

もちろん老子は「インターネットのウィンドウ」なんて言ってない。たぶん英訳も言ってない。そこんところを加島祥造が現代の言葉でぶつけてくる。やってくれるじゃないか、という感じがする。この訳を不満と思う人は、それぞれの詩の最後にレ点、返り点付きの漢文がついているので、それを読めばよい。

タオの活力を据えることだ。ただしそれは

修身斉家治国太平天下につながる

なんてことじゃないんだ。

各人がただ、自分のなかの活力を思い

それを大切にすることでいいんだ。

「まずは君自身が「自由」になること」

辻潤老子の思想に影響を受けていたっけ。ともかくとして、老子は天下国家について語りはするが、あくまでも個人のところに、個人の内面のところにタオを見出したほうがいいんじゃねえかと、そういうところがある。そこにアナーキズムもあるし、ダダもあるかもしれない。ないかもしれない。しかし、通じるところはなにかしらあるんじゃないかと思うのだ。

時の政府がモタモタして能率が悪いと

かえって国民は素直に元気に働く。

政府が能率よくぎしぎしやると

国民はかえって不満でずる賢くなる。

世の中のことなんてこんな風に

ハッピーなものは災いを起こすし

ミゼラブルな状態には

ハッピーな動きが潜んでいるんだ。

「よく光る存在だが」

対極と流転、そしてタオの不動としなやかさ。このあたりはなんとなくだが、西洋の凝り固まりのようなものとは逆を行くようなところがある。だからかえって、西洋の人たちのほうがタオに近いのかもしれない、などと思ったりもする。なぜなら、我ら東洋人は(主語が大きい)、いろいろなものから老子の思想のようなものが「真」であるように、当たり前のように思っているところがあるからだ。それゆえに、それを軽視したりしてはいないか。あるいは、敵視したりしてはいないか。

タオはね、

世の中でダメ人間とされる連中の

避難所といえるんだ。

「ようこそ、ダメ人間の避難所へ」

 というわけで、おれのようなダメ人間はタオの道とかいって、霞とか食いたいです、とか的はずれなことを言い出したりする。そうだ、それでもなお、おれは避難所に行けるものなら行ってみたい。おれのようなものを掬ってくれるのだろうか?

天にあるタオの働きは

大きな網(ネット)みたいなものでね、

目はあらくて、

隙間だらけだが、

大切なものは何も漏らさないんだ。

「「天の網」って知ってるかい?」